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《東京裁判で復活した「南京虐殺事件」》
極東委員会とは、GHQを管理していた上部機関である。その極東委員会の中国代表は、
1938年2月2日、国際連盟理事会で公式に「虐殺の犠牲者2万人」との
「南京虐殺宣伝」をした顧維鈞であった。
1948年11月の東京裁判の判決は、「南京虐殺」の犠牲者数に関して二通りの判決が
出ている。それは、南京攻略戦の総司令官 松井石根大将個人の「10万人」と南京攻略戦の
「20万人」以上の異なった判決が出ていたのである。いずれにしても、南京での「虐殺数」は
唐突に一桁増えたのである。
それは、「南京事件」後4ヶ月間に11万2266人の遺体を処理したという崇善堂の
埋葬記録を検察側が加算した結果の犠牲者数である。「南京事件」後4ヶ月間、崇善堂が
活動していなかった事は、昭和60年8月10付産経新聞が報道した阿羅健一氏の
スクープ記事で証明されている。この事実だけで、松井大将個人の判決から崇善堂の
「約11万2千人」を引くと犠牲者数は、約マイナス1万2千人になってしまう。
また、活動記録のあった紅卍字会の埋葬記録の中にも不自然な記述がある。それは、
東京裁判に提出された埋葬記録一覧表によると、一ヶ所だけ「埋葬箇所と備考」が
空白の日があり、ほとんどが三桁にもかかわらず、最大の埋葬数6466名となっている事だ。
その月日は、12月28日となっているが、その日、南京は
「曇り午後小雪を交へた雨 夜雪になる」だったのです。
(『南京の実相 - 国際連盟は「南京2万人虐殺」すら認めなかった』日新報道)