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「南京戦跡案内」(昭和十三年十一月 中支派遣軍報道部)
一、皇軍入城当時の支那人状況
(1)当時南京に残留する支那人の数は二十三万乃至二十五万と称せられ其の大部分は
所謂難民区(漢中路以北、中山北路以西の地域)一帯に居住し居り国際委員会及び紅卍
字会中心となり救済、救護其の他の世話を為せり
国際委員会は独逸人ラーベーを会長とし在留外国人(当時の外国人独逸人五名(墺一を
含む)白露二名、米国十六名、合計二十三名)の一部委員となり難民収容所二十五ヶ所
(旧交通部、金陵大学、同女子大学、同中学、同蚕桑科、同神学院、同図書館、山西路
小学、湖北路小学其の他)を設けたるが其の人員約六万と称せられたり
(2)難民区内にある其の他の避難民約十七万乃至十九万は紅卍字会斡旋の下に難民区
内の建物住宅内に数十名乃至百名位合宿収容せり
二、其の後の状況
難民区に避難中の支那人推定数二十五万に対し軍側に於いては査問委員会を設け十二月
二十四日より良民に対して安居証を交付せるが一月五日ひと先ず一段落を告げたるを以
て六日七日の両日は未交付安居証の整理を為し九日より逐次避難民を夫々自宅に復帰せ
しむることとなり市内を五区に区分し各区に区公所を設け自治委員会と協力して復帰事
務を処理せしむることとし一月十四日先ず第二区より事務を開始各区共同月末に夫々事
務を開始せる処右は治安及び宣撫工作上重要なる関係あるに付軍側始め各機関協力万全
を期したるがその後着々順調に進捗せり
つづく・・・