12/01/22 19:27:04.82 0 BE:1455072285-PLT(12066)
>>2-5(の続き)
まさにこれこそが、ベックが「リスク社会」という言葉を通じて述べた状況ではなかったか。リスク社会においては、
われわれの生活を快適にするはずの技術が同時にリスクも生産してしまうため、
ひとたび事故が起こればリスクは万人に等しくふりかかることになる。原発事故がそうであったように。
ベックは「リスクによる連帯」を提唱するが、いま起きつつあることはむしろ「リスクによる分断」ではないだろうか。
この分断の要因としては、リスクそのものを生産している政府や東京電力以上に、
リスクへの態度が異なる人々への攻撃性のほうが先鋭化してしまうという、いわば「隣組」的な心性があるように思われる。
しかし、その「分断」が誰を利することになるかは言うまでもないだろう。
さらに付け加えるなら「連帯」の手前で問われるのは、私たちの「死生観」そのものなのではないか。
私たちの生が常に多様な、時として定量することもできないリスク--それは「放射能」に限らない--を抱えていること。
つまり生の内側では常に死が育まれている事実を理解すること。被ばくについて考えることは、この事実を深く認識するまたとない機会となるだろう。(終了)
毎日新聞 2012年1月22日 東京朝刊
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