12/01/22 19:26:42.84 0 BE:763912973-PLT(12066)
>>1(の続き)
その背景には、低線量被ばくの危険性がはっきりしないという問題がある。放射性物質の放出が及ぼす長期的影響については、不確実な点が多いのだ。
生活環境に数世代にわたって残留するごく低レベルの放射能が、住民集団の健康に、長期的にどのような影響を及ぼすのか。
「これ以下は安全」という「しきい値」はあるのか。被ばく線量と発がん率の上昇には直線的な関係があるのか。確実なことは何も分かっていない。
この状況下で立場は二つに分断される。「危険であるという根拠がないのでさしあたり安全」とする立場と、
「安全であるという根拠がないので危険」とする立場。事故直後には後者に傾いた私自身も、最近では前者に近い立場だ。
不確実な未来予測に基づいて当事者を批判する権利は私にはないと気づいたからだ。
社会学者のウルリッヒ・ベックは、福島の原発事故に関する論考で「非知のパラドクス」について述べている(「リスク化する日本社会」岩波書店)。
先にも述べたとおり、低線量被ばくによる影響については、確実なことはほとんど分かっていない。
こうした「非知」に耐えられない人々の中には都市伝説や代替医療に向かうものも出てくるだろう。
さらにここに政治的な問題が加味されることで、知識はさらに硬直化する。
例えばチェルノブイリの犠牲者数については、数十人から百万人以上とする説まで、報告によってまちまちであるという。
事故の範囲をどう定義するかによって、データの解釈がまったく異なってくるのだ。汚染地域の区分にしても、しばしば曖昧で時に矛盾することすらあった。
この状況下では「危険が増すほどに非知も増し、決断は不可避となるとともに不可能となる」。
それどころか現時点では、情報が増えれば増えるほど混乱が深まるようにすら思われる。分かれば分かるほど分からなくなる、という状況下で、
もはや「絶対の安全」は誰の手にも入らない。(>>3-5へ続き)
毎日新聞 2012年1月22日 東京朝刊
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