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野田改造内閣の目玉人事として入閣した岡田克也副総理。代表を1回、幹事長を3回務めた「民主党の看板」の一人だが、
「暗い」「堅物」といったネガティブイメージがつきまとう。代表として郵政総選挙で惨敗したり、
幹事長として菅直人前政権を支えたことにより国民的な人気も今ひとつ。過去の言動からその人物像を探った。
無愛想さは13日も変わらなかった。都内の自宅を出る際、記者団が「岡田さん!」と声を掛けても一(いち)瞥(べつ)もせず無言。
正午前に首相官邸から「呼び込み」の連絡が入る直前まで、自ら会長を務める党行政改革調査会の会合で議論を続けた。
「与えられた立場で責任を果たす」という信念を貫いたといえるが、このサービス精神の欠如が「根暗」のイメージを増幅させる。
印象的なのは党代表で迎えた平成17年8月の郵政総選挙だ。
小泉純一郎首相(当時)が「郵政民営化の是非を問いたい」と訴えたのに対し、岡田氏が掲げたキャッチコピーは「日本を、あきらめない」。
白い背景で岡田氏が無表情に1人すくっと立ち上がるCMに民主党の候補者たちは「暗くて選挙を戦えない」「何が言いたいのか分からない」と悲鳴を上げた。
結果は自民党296議席、民主党113議席という惨敗。直後に岡田氏は代表を辞任したが、今も自らの責任が大きいとは思っていないようだ。
20年の著書「政権交代」では当時をこう振り返っている。
「私は真面目すぎるとか固すぎるとの批判を受けることが多かった。真面目であることが評価されない政治がよい政治なのか」
思い込んだら猪突猛進する一途な性格は昔から変わらない。
2年に自民党で初当選すると、党幹事長などを務めた小沢一郎氏を「政界の父」と心酔し、政治改革を唱えて5年に離党。
9年12月に小沢氏が新進党解党を宣言すると「有権者への大いなる裏切りだ」と袂を分かった。
10年4月に民主党結成に参加。「政権交代可能な政党をつくる最後のチャンスだと自分に言い聞かせた。
もし民主党で失敗したら政治家を辞める覚悟だった」(「政権交代」より)。
その後も挫折を繰り返し、21年夏に幹事長として悲願の政権交代を実現させたが、民主党や官僚機構の評判は芳しくない。
URLリンク(sankei.jp.msn.com)
続く