13/09/18 00:39:20.89
アサヒ芸能 2010年の連載「松田聖子を創った男たち」第一回より
新進の作曲家・小田裕一郎は、サーカスに提供した「アメリカン・フィーリング」で注
目を浴びていた。小田は、聖子のデビュー曲「裸足の季節」から「青い珊瑚礁」「風は
秋色」のシングル3部作を手がけ、またアルバムも3作続けてプロデュースしている。
聖子が他のアイドルを一線を画す理由に「アルバムの完成度」が挙げられる。ボツにな
った曲を集めたものがLPという慣例に逆らい、組曲のように明確なテーマを持ったア
ルバム作りに終始した。
そして小田はボーカルレッスンをつけながら、聖子に合う曲を模索する
「高音部が豊かな声量できちんと出るのはもちろん、低音部の発声も素晴らしかった。
低いパートって、ともすれば宝塚歌劇のような仰々しい歌い方になったりするけど、
彼女はハスキーで魅力的な声が出た」
そして「聖子節」の完成に取りかかる
「バイオリンにおける「スラー」という演奏スタイルがあって、いくつかの音符をくく
り、音と音を滑らかに繋げる、そんな歌い方をやらせてみた。一つ一つの音に対し、両
側から滑らせながら歌うという感覚」
桑田佳祐や矢沢永吉が「フェイク唱法」と呼ばれたが、聖子の場合、歌詞がクリアに聞
こえて、尚且つ洋学的になったのである。
小田は、2曲目の「青い珊瑚礁」で仕掛けを施す。通常、Aメロ→Bメロ→サビと展開
する流れを無視し、冒頭にサビを置いたのだ
あの「あ~、私の恋は~」の印象的なフレーズがそれだ。ピンクレディーの「ペッパー
警部」のようにデュエットでは存在しても、ソロのアイドルで高音のサビ始まりは異例
のことだった
「さすがに彼女も最初は嫌がっていたね。いきなり高音で始まるのは新人歌手としは不
安もあっただろう。でも、それができるのは松田聖子しかいないんだから」
冒険だった「青い珊瑚礁」は、デビュー曲の倍以上の60万枚を売り上げた
5:昔の名無しで出ています
13/09/18 00:40:13.36
アサヒ芸能 2010年の連載「松田聖子を創った男たち」第一回より
80年8月14日、TBSの人気番組「ザ・ベストテン」で、聖子の「青い珊瑚礁」が待望
のランクインを果たす。デビュー曲「裸足の季節」は、注目曲を紹介する「スポットラ
イト」には登場したが、10位以内には届いていなかった。
実は聖子の登場まで、久米宏を筆頭とした「ザ・ベストテン」のクルーは、山口百恵に
認められたくて精力を傾けていたという。「今夜の演出は素敵でしたわ」「来週はどう
なるか楽しみです」
そんな”女神”の座も、百恵の引退に合わせて聖子に禅譲される。放送が終わるとサブ(
副調整室)を必ず訪れ、きちんとお礼を述べてから帰途につく。1人、また1人と聖子
の演出を希望するスタッフが増えていったという。
のちに「クリスマス・イヴ」や「ホームワーク」など、TBSの名作ドラマをいつくもプ
ロデュースする遠藤環は、当時、若手ディレクターとして「ザ・ベストテン」に関わっ
ていた。初登場から5週後、遠藤は「青い珊瑚礁」が初めて1位になった9月18日の担
当ディレクターだった。感動の場面を、最高に盛り上げるのは、どう演出すればいいか
・・・遠藤は、やはりデビューまでを支えた母親の存在だろうと思った。
「番組の女性デスクに福岡まで飛んでもらい、お母さんの手作りのお弁当を受け取り、
そのまま東京に戻る。中身よりも、聖子が小さい頃から親しんだお弁当箱こそ大事だっ
た」
黒柳徹子から弁当箱を見せられた瞬間、聖子は瞳をうるませ、あまりにも有名な「お母
さ~ん!」の絶叫へとつながる。作り手たちの意図に、これ以上ない反応を見せてくれ
た。遠藤は中継後、聖子をタクシーで駅まで送っていったことがある。真冬の寒さにも
関わらず、聖子は運転手にこう告げた。
「喉に悪いので暖房を切ってください」
そんなプロ意識の高さは、聖子に次々と「伝説の扉」を開かせることになる
6:昔の名無しで出ています
13/09/18 00:41:08.69
アサヒ芸能 2010年の連載「松田聖子を創った男たち」第二回より
作曲家の平尾昌晃が初めて聖子と会ったのは79年のことだった。聖子、いや本名の「
蒲池法子」は久留米市から歌手になるために平尾が主催する音楽学院の福岡校に通って
いた。
平尾は当時、福岡にライブハウスを開いた関係で、月に一度はレッスンを見る機会があ
った。そこに誰よりも早く来て、誰よりも遅くまでレッスンを受けていたのが聖子だっ
たという
「僕の好きな西田佐知子やちあきなおみにも似た、ビロードがかかった声の艶があった
当時の発声は荒っぽいけど、中高音の伸びは圧倒的だったね」
とにかく、人懐っこい性格と、歌手になる夢を父親に認めさせる固い意志が印象的だっ
た。
そんな79年当時、待ちにはインベーダーゲームの嵐が吹き荒れていた。夢中になって
いた平尾は、レッスンが終わると聖子らを引き連れ、近くのゲームセンターに駆け込む
対戦する聖子は、やはりリズム感の賜物か、平尾が舌を巻くほどの上手だった。そんな
ゲームの最中も、視線をそらさずに聖子は言う。
「先生、私は歌手になって必ず成功するから!」
歌手を「夢見る」子は多いが、自分が成功している姿を「イメージ」出てきている子は
珍しい。平尾は、間違いなくこの子はプロになれるだろうと思った。
そのため、時間の無駄遣いなど一切せず、目標へ一直線に向かう姿勢が好ましかった。
「レッスンではいろんなタイプの曲を歌わせてみた。特に印象深いのは『ボーイハント
』などのオールディーズね。ものまねではなく、自分の曲として消化できている。次々
と課題曲を与えると、一度も拒否することなく、貪欲にこなしていましたね」
平尾がのちに1作だけ手がけた聖子ナンバーは、3枚目のシングル「風は秋色」と両A面
扱いだった「Eighteen」である。それは、あの日の「ボーイハント」を彷彿とさせる
オールドポップス調の逸品に仕上がっていた・・・
7:昔の名無しで出ています
13/09/18 00:41:53.90
アサヒ芸能 2010年の連載「松田聖子を創った男たち」第二回より
「すごい声だね。これ、マイクいらんわ」
ソニーのスタジオにエンジニアの鈴木智雄の声が響く。笑い話のようであるが、それほ
ど聖子の声量には誰もがうなった。
同じ場に居合わせた作詞家の三浦徳子は、デビューから5曲続けて聖子のシングルを手
がける。
初めて会った聖子は17歳で、例えるなら「14歳当時の浅田真央」のようだった。
清潔で天真爛漫、そして色白で頬だけ桜色をしていたのが印象的だった。
その姿に三浦は、作詞における聖子の基本カラーを「薄いピンク」にしようと決めた。
たとえば2曲目の「青い珊瑚礁」には「渚は恋のモスグリーン」という一節があるが、
これなどは聖子カラーのピンクを引き立たせる「補色」の効果を狙った。
また三浦は、聖子と同年6月にデビューした河合奈保子の「大きな森の小さいなお家」
も担当している。ただし1曲のみに終わった
「河合さんにはごめんなさいなんですけど、実は2曲目の依頼を断ったんです。私は
作詞家になったばかりで、聖子さんの声にインスパイアされ、この人おもしろいと思
ったものですから」
河合奈保子も張りのある歌声に定評があるが、それでも聖子だけに専念したかった
8:昔の名無しで出ています
13/09/18 00:42:45.79
アサヒ芸能 2010年の連載「松田聖子を創った男たち」第二回より
それは作詞家だけでなく、作曲家の小田裕一郎も全精力を聖子に傾けた1人だ。それが
「裸足の季節」である。単なる「アイドル歌謡」に終わらないよう、サンバやサルサの
リズムを取り入れ、珍しい打楽器もいくつか使った。さらにー
「あの曲は2番の終わりから再びサビが来るまでの間奏が24小節もある。普通は8小節
くらいだけど、それが新しさだとこだわった」
このデビュー曲だけでなく、聖子のレコーディングのほとんどが「一発録り」に近かっ
た。何ら手直しすることなく、また別々に録音したものをつなぎ合わせる必要も皆無だ
った。
聖子のデビュー曲は、CMでは歌声のみだったが、全国に「顔」を売る機会が訪れた。
それは平尾が司会を務めたNHKの「レッツゴーヤング」だった。男女アイドルで構成
する「サンデーズ」の一員に抜擢されたが、歴代でも最大の人気を誇った年と平尾は言
う。
「聖子ちゃん、そして田原俊彦がいてずば抜けていたよね。番組では外国のポップスを
サンデーズに歌わせることが多かったけど、彼女が歌うとスタッフの誰もが『いいねぇ
』って声をそろえた」
平尾はNHKホールの客席から、少しずつ女性ファンの声援が増えていったと感じた。
いわゆる「ブリっ子」の代表とされながら、あの歌声の説得力には同性の支持も増えて
当然なのだろうと思った。
作詞家の三浦は聖子の第一印象を浅田真央にたとえたが、現在の姿はキム・ヨナに似
てると言う。その共通項とは?
「物事の本質をどんどん解ってゆき、核心部分を鷲づかみにしたあと、自由に自分を
出せています」
これからの聖子にも「自由な線を描き続けてほしい」と願う
9:昔の名無しで出ています
13/09/18 00:43:31.25
アサヒ芸能 2010年の連載「松田聖子を創った男たち」第三回より
松田聖子がデビューした年、空前のアイドルブームを築いたことから「黄金の80年組
」と呼ばれた。岩崎良美もその1人であり、堀越学園高校でも机を並べた友人である。
同じクラス、同期デビュー、同時期に「資生堂」のCMソング、歌手の前にドラマでお
披露目など、2人には共通点が多い。唯一、違うとしたら良美は「岩崎宏美の妹」であ
ったことだが、聖子はそれを口にすることなく良美と親しくなった。
「気さくで人懐っこくて、とにかく可愛くて楽しい子。会った皆が好きになっちゃう
感じでした」
平凡の撮影で食事の機会が与えられる。撮影所のうどんから、いかにもアイドルらしく
「いちごのショートケーキ」に格上げになるが、聖子は半分も食べない。
「どうして残したの?」「良美ね、私、これ全部食べたら後悔すると思うの」
すでに徹底したプロ意識だった
10:昔の名無しで出ています
13/09/18 00:45:02.64
アサヒ芸能 2010年の連載「松田聖子を創った男たち」第三回より
松村和子は80年4月「帰ってこいよ」でデビューする。聖子とは生年月日で13日違い
であり、「黄金の80年組」として新人賞を争う。松村は、30年前の日々を思い返す
「同期の皆が良かったから相乗効果で頑張れたなって思いますね。当時は親衛隊の声援
の声援もすごくて『聖子~!』『良美~!てなるのに、私のときは『・・・』だったか
らちょっと寂しい思いも味わいましたけど」楽屋で見る聖子はイメージと違ってキャピ
キャピした部分がまったくなかった。自分を客観視できる人だと思った。
そして大晦日の天王山、「日本レコード大賞」で雌雄を決する。順に5人が持ち歌を披
露するが、岩崎は聖子の受賞曲「青い珊瑚礁」を後ろで聞きながら、この声の伸びは聖
子にしか出せないと改めて思った。
「第22回日本レコード大賞、最優秀新人賞は『ハッとして!Good』を歌った田原俊彦
!」
その瞬間、誰よりも喜んでいたのが聖子だったと岩崎の目には映った。ただし、田原を
残して4人が舞台袖に引っ込む間際、松村は「もうひとつの表情」を見た。
「今にも泣き出しそうなくらい、聖子ちゃんが悔しそうにしているのを見ましたね。あ
の顔は今でも忘れられない」
そして松村も岩崎も今年、同時に30周年を迎える。
松村は聖子を「子供を産んでもアイドルを続けられる先駆者」と言い、岩崎は「ずっと
皆をドキドキさせる松田聖子というブランド」と評する
輪の中心には昔も今も、聖子がいた
11:昔の名無しで出ています
13/09/18 00:47:29.82
アサヒ芸能 2010年の連載「松田聖子を創った男たち」第5回より
そんな聖子から依頼を受けた人物がもう一人いる。77年に「てぃーんずぶるーす」で
デビューした原田真二である。
「僕がNKHの番組に出たのを偶然見ていらして、事務所から楽曲プロデュースとコン
サート制作の依頼をされたんです」
「失礼ながら歌謡曲の世界の方、って認識だったんですよ。ところが、アメリカでの
アルバム発売等を経て、セルフプロデュースの実績に驚かされました」
以来、4年にわたって聖子と原田のコンビが実現することになる。
誰もが口にすることだが、やはり聖子の「天が授けた声の質」には原田も驚嘆する。
さらに「楽曲の良さ」と続き、役目を持って歌手になり、多くのファンを魅了する人だ
と認識を新たにした。そして、2人を中心に、アルバムやツアーのディスカッションが
始まる。原田は、その場を「戦いだった」と回想する。
「僕はもちろん遠慮なく意見を言わせてもらったけど、聖子さん自身も仕事に対しては
すごく厳しい。アルバム用の楽曲の方向性、ステージの作りや選曲など、とことん話し
合いました」
12:昔の名無しで出ています
13/09/18 00:48:20.36
アサヒ芸能 2010年の連載「松田聖子を創った男たち」第5回より
ただし、2人のコンビネーションには別の関心も寄せられた。女性誌を中心とした、2
人の仲を取り沙汰する報道の量である。たとえば、数人のスタッフを交えて海外のミー
ティングをする。そこに居合わせた観光客が原田と聖子だけを狙って写真を撮り、あた
かも密会のように仕立て上げる。聖子の仕事に対する姿勢を知る原田には、歪んだ形で
記事になることが許せなかった。
「かといって、噂が出たらプロデュースを降りるというのもおかしい。契約の期間はき
っちりと務めようと思いました」
自身もアーティストである原田は、聖子のステージにもギターやコーラスで参加する。
また聖子の一連のヒット曲にもアレンジを施し、トータルではロック志向を強めたステ
ージに変えた。原田は文字通り「ライブ感」を重視した。ステージで不測の事態が起き
ても、それを含めてライブだと楽しむようにする。原田のギターに聖子のボーカルが檄
しくからむ姿などは、新しい扉を開かせた瞬間だろう。
そして、04年、原田は自身のアルバム制作に本腰を入れるため、聖子との共同作業か
ら退く。
徹底したプロ意識___最初から最後まで抱いた印象である。
13:昔の名無しで出ています
13/09/18 00:49:18.11
アサヒ芸能 2010年の連載「松田聖子を創った男たち」第六回より
05年に「音楽・夢くらぶ」(NHK)で共演した渡辺真知子は、真横で聖子の「大人か
わいい」に触れている。渡辺の代表曲「唇よ、熱く君を語れ」のデュエットで聖子は
無邪気なままで楽しげだった
「聖子さんとハモってると横から「ワァ~イ!」って気配が伝わってくるの。ああ、こ
の歌を聴いていた頃の甘酸っぱさにタイムスリップしてるんだなって」
そして、渡辺も、聖子サイドに指名された一人だった
「ちょうど「ガラスの林檎」の前くらい。路線を変えたい時期だったのか、ミディアム
バラードでの注文でした。残念ながら私の曲は採用されなかったけど、そのあたりか
ら彼女の歌唱は、前にも増して情感が伝わる素晴らしいものに変わっていきました」
「聖子の30年」は、渡辺にはこう映っている
「女の子はずっと可愛くありたいを素直に出せた人。」
だから見ていて飽きない
「もちろん、物凄いパワーがないと、それを続けることはできませんよね」
願わくば、いつか聖子が歌う「迷い道」を聴いてみたいと、渡辺は微笑むのだ
14:昔の名無しで出ています
13/09/18 00:50:07.96
アサヒ芸能 2010年の連載「松田聖子を創った男たち」第七回より
80年のデビュー曲「裸足の季節」や「風は秋色」、またアルバムを含め13曲をアレン
ジしたのが編曲家・信田かずおである。
信田は聖子と初めて会った日のことを思い出す
「デビュー曲のオケを作っているスタジオに、学生カバンを下げてやって来たんですよ
まだ歌入れでもないのに、スタジオに来る歌手って珍しいなと思った」
同様にデビューから3部作を手がけた作曲家の小田裕一郎は、ある日のレコーディング
が終わり、焼き肉に誘った時の返事に困惑した
「そこ、鶏肉ありますか?」
そういえばスタジオでも朝から焼き鳥弁当をパクつくような子だったなと苦笑する。
ただし、いざ歌わせてみるとそんな素朴さが一変する。信田は車の排気量にたとえ「
5000ccクラスの歌声」と評価した
「無理したりガナったりせず、自然な歌い方で心地よい音色が出せる。歌のキャパシテ
ィがとてつもなく広いんだと思った」
それならばーーーそれを生かすアレンジをと信田は思った
信田は初アルバムの1曲目「~南太平洋~サンバの香り」を筆頭に、アレンジには絶大
な自信をうかがわせる。「作曲の小田さんが従来の歌謡曲と違って欧米系の作りをして
いた。なので、僕のアレンジもTOTOとかボズ・スキャッグスなど、当時の最先端の洋
楽をイメージしています」
信田は「ヤマハ合歓音楽院研究室」でアレンジの勉強を重ねるが、ここから船山基紀、
萩田光雄、大村雅朗ら、当時のチャートを度巻する編曲家を輩出している。
「とにかくカッコいい音作りがやりたかった。日本の歌に洋楽のテイストをガンガンと
乗せていったし、彼女のボーカリストとしての容量がさらに冒険させてくれた」
デビュー曲「裸足の季節」はCMに使われ、30万枚を売り上げる。そして信田にも桜田
淳子やサーカスなど、アレンジの仕事が激増したという。
やがて、あの日の「学生カバンの少女」は瞬時にアイドルを飛び越え、アーティストの
域になっていったと信田の目には映った
15:昔の名無しで出ています
13/09/18 00:50:51.49
アサヒ芸能 2010年の連載「松田聖子を創った男たち」第七回より
復帰作の作曲に指名されたのは、当時驚異的なセールスを誇った「レベッカ」のリーダ
ー土橋安騎夫である。依頼を受けた土橋は、これまでのバンドの一員としてのみ作曲を
しており、自分がどこまでできるのかという思いがあった。バンドのボーカルである
NOKKO以外に宛てて曲を作るのは未知のことだ。
「自分なりに彼女が歌った声の響きを想像し、綿密に作り上げました」
その意欲に反し、デモテープを聴いた担当ディレクターの返事は「NO!」であった
「もっと土橋君らしいストレートな曲を!」
思いがけない返答に多少は悩みつつ、土橋は無心になり勢いで次の曲を作った
そしてーーー「OK!」が出た
完成作を聴いた土橋は思った
「出来上がりは見事!。聖子さんの世界観に染まった素晴らしいロックンロールで
した。その後のレベッカの曲とともに自分の代表作ともなった『Straberry Time』は
今でも自分にとって大事な一曲です」
今春、30周年を迎えた聖子に、土橋は尊敬の念を込めてエールを送る
「常にアーティストとして、また女性として進むべき道をしっかり持った聖子さん。
これからの活動も大いに期待しています」
16:昔の名無しで出ています
13/09/18 00:51:36.47
アサヒ芸能 2010年の連載「松田聖子を創った男たち」第八回より
丸山恵市は、聖子史に欠かすことのできない編曲家・大村雅朗と長く共同作業をこなし
てきた。当時の大村はアメリカンポップスに傾倒していた
「2人で資料をたくさん集めて、どんなアレンジが聖子さんに合うのか研究した。大
村さんが重きを置いたのはアメリカ西海岸風サウンド。さらに聖子さんには季節感を
明確に表していくことが大事だろうということになりました」
奇しくも大村は聖子と同じ福岡の出身だ。福岡弁で交わされる2人だけの会話を幾度と
なく目撃している。年齢は11歳違うが同郷のよしみからか「まあくん」「聖子ちゃん
」と呼び合う仲だった
大村は編曲・作曲合わせ、60曲以上を聖子に提供した。大村自身、のちに小室哲哉や
大江千里ら多くのアーティストに影響を与えた天才肌であるが、そんな男にも聖子作品
のハードルは高かったようだ
「もう辞めたい・・・聖子ちゃんのアレンジ続けていくのは苦しい」
特に「夏の扉」のアレンジはアイディアに七転八倒した最たる例だった
丸山は大村をこう励ました
「冷静な目で見てやはり松田聖子には大村さんのアレンジだよ。苦しいときもあるけ
ど何とかしのいでやっていきましょうよ」
丸山の激励で、大村は再び聖子作品に前向きに取り組むようになったという
丸山は、アメリカ進出をにらみコンサートをより本格化させたい聖子から指
名を受けた。88年から91年までツアーの音楽監督、91年に出した洋楽カバ
ーアルバム「Eternal」では6曲のアレンジを手がける。
「あんなに小柄なのにステージに出た瞬間に大きく見える。これが天性のオ
ーラなんだと思いましたね」
17:昔の名無しで出ています
13/09/18 01:04:59.75
アサヒ芸能 2010年の連載「松田聖子を創った男たち」第八回より
「マイケル・ジャクソンにクインシー・ジョーンズがいたようにー」
作詞家の三浦徳子は言う。松田聖子に対して大村雅朗という優秀な編曲家の功績は大き
かった、と
三浦は今でも大好きな曲(SWEET MEMORIES)だと話す
「あの曲は名作だし、今でも何かの曲を聴くと大村君のアレンジならどうなるかな?
と思うことがある」
映画「失楽園」や大河ドラマ「天地人」の音楽で知られる大島ミチルも九州の先輩であ
る大村に魅せられた1人だ
「大村さんの音楽性はいつも暖かく優しさにあふれ、何よりもさりげないセンスがあり
私は大村さんのような音楽家になりたいと高校生の頃、ずっと思っていました。あの包
み込むような音楽性が聖子さんの可愛らしさにピタリとはまったのだと思います」
大村が病床に伏したのは96年のこと。それから約1年の闘病生活を送り97年6月29日
に肺不全で46歳の生涯を終える。
大村は死の直前、松本隆に遺作となる曲を託している。大村の死から2年後に発表され
た「櫻の園」である
当時、聖子は作詞・作曲からプロデュースまで手がけるようになっていたが、この時ば
かりは大村の遺志に応えるべく1人のシンガーに戻った
プロ意識の極めて高い聖子には珍しいことだが、同曲のレコーディングでは号泣する姿
を見せている
大村の遺作を中心としたアルバム「永遠の少女」は作詞家もミキサーもディレクターも
かつての聖子ソングのスタッフが参集した
18:昔の名無しで出ています
13/09/18 01:05:59.14
アサヒ芸能 2010年の連載「松田聖子を創った男たち」第九回より
聖子デビューの2年後、ライバルと目されることになる中森明菜がデビューする
明菜にも聖子同様、多くのアーティストが楽曲を提供している
「少女A」「1/2の神話」「禁区」「十戒」で、初期のイメージを作ったのが作詞家・
売野雅勇である。売野にとって明菜はもっとも描きやすい歌手だった
「それは松田聖子という圧倒的な存在がいたから。彼女に対立概念として明菜ちゃん
に詞を書けば良かった」
売野によれば、当時のアイドル歌手はほとんど聖子ファンばかりだったという。
小泉今日子、石川秀美、早見優、松本伊代らはそろって聖子ちゃんカットでデビューし
ている。仮に彼女たちが本当にファンでなかったとしても、聖子の存在自体は少なか
らず意識していたはずだ
聖子の中にある「少女性」を松本は見事に引き出して詞に描いた
ならば明菜には逆に「不良性」を見出せないかと売野は考えた。そして生まれたのが大
ヒットとなった2枚目のシングル「少女A」だ
ただ、明菜自身はツッパリ路線を決して消化できたわけではなく、のちに暗に同曲を否
定した
明菜が「瑠璃色の地球」をカバーしたのは、聖子の歌世界への素直な憧れだろう
19:昔の名無しで出ています
13/09/18 01:06:41.34
アサヒ芸能 2010年の連載「松田聖子を創った男たち」最終回より
松本が聖子に提供したのは、およそ音楽史に例を見ない138曲である。一人の作詞家が
一人の歌手に向けて書いた記録として、この数字を越えるものは今後も現れないだろう
いかに松本が聖子の歌声を愛し、また聖子も松本の描く詩の世界観を受け入れていたか
ある時期からアルバムのプロデューサーも兼ねるようになった松本は、レコーディング
スタジオにも顔を出すようになる。デビュー当時から聖子は、どんな曲でも瞬時に吸収
する抜群の聴力を持っていた。自分の中で歌を完全に理解することが出来たため、レコ
ーディングに手間取らないことでも有名だった。たとえば、松本と同じ「はっぴいえ
んど」のメンバーだった細野晴臣による「天国のキッス」は複雑な転調を重ねる難曲だ
が聖子はたやすく歌いこなした
「レコーディングの時、スピーカーからあの声が流れ出すのが好きでね。あの声で自分
の詞を歌ってもらえるのは作り手冥利につきる」
松本はこう回想する。松本は自分の中にある”理想の女性像”を詞に描いた。詞の中の女
性を少しずつ成長させながら聖子に歌わせてきた。「SWEET MEMORIES」のヒロイ
ンは、青春ドラマの主題歌になった「蒼いフォトグラフ」の主人公の後の姿であるとい
うように。
その結実となったのが、88年5月に発表したアルバム「Citron」だった。ここで「続
・赤いスイートピー」を書いたことと、新しい命が芽生える「抱いて・・・」を書いた
ことで、「聖子の成長をすべて描き切った」と松本は思った
その後、道は分かれてしまうが、松本にとっての聖子に対する「天才」という評価が揺
らぐことない
20:昔の名無しで出ています
13/09/18 01:07:31.10
松田聖子楽曲提供者(日本人のみ)
01. 小田裕一郎
02. 平尾昌晃
03. 財津和夫
04. 森家住吉
05. 平井夏美
06. 大瀧詠一
07. 鈴木茂
08. 杉真理
09. 呉田軽穂(松任谷由実)
10. 来生たかお
11. 原田真二
12. 細野晴臣
13. 南佳孝
14. 大村雅朗
15. 甲斐祥弘
16. 上田知華
17. 林哲司
18. 井上鑑
19. 日野皓正
20. 尾崎亜美
21. Holland Rose(佐野元春)
22. 矢野顕子
23. NOBODY
24. 小坂明子
25. 大貫妙子
21:昔の名無しで出ています
13/09/18 01:08:16.67
26. 安藤まさひろ(T-SQUARE)
27. 亀井登志夫
28. 宮城伸一郎(チューリップ)
29. 久保田洋司(THE 東南西北)
30. 大澤誉志幸
31. 玉置浩二
32. 土橋安騎夫(レベッカ)
33. 三谷泰弘(スターダストレビュー)
34. チャック・ムートン(いまみちともたか/バービーボーイズ)
35. 小室哲哉
36. 辻畑鉄也(ピカソ)
37. 大江千里
38. 広石武彦(UP-BEAT)
39. 米米クラブ
40. 鈴木康博(オフコース)
41. タケカワユキヒデ(ゴダイゴ)
42. 杏里
43. 奥居香(プリンセス・プリンセス)
45. 井上ヨシマサ
46. 柴矢俊彦(ジューシィ・フルーツ)
47. 国安わたる
48. 野田晴稔(HALNEN)
49. 川上明彦
50. 小森田実
22:昔の名無しで出ています
13/09/18 01:09:07.66
51. 徳永英明
52. 鈴木祥子
53. Achilles
54. 高橋諭一
55. 羽田一郎
56. 尾関昌也
57. 笹路正憲
58. 小倉良
59. 大久保薫
60. M.Rie
61. 宮島りつ子
62. 千沢仁
63. 羽場仁志
64. 佐々木孝之
65. 柴草玲
66. 島野聡
67. 福士健太郎
68. 鳥山雄司
69. 上原純(神田沙也加)
70. 竹内まりや
71. Chara
72. 久保田利伸
23:昔の名無しで出ています
13/09/18 01:09:54.35
以上テンブレ完了
24:昔の名無しで出ています
13/09/18 02:36:06.40
>>1
愛され乙の