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「工場長の代表作」
ヤクルト監督・野村克也は基本的にトレード推進派の監督だった。それで何人もの低迷選手を蘇生させてきた「再生工場」の主である。
野村がトレードおよび自由契約選手を獲得するタイプは大きく分けて2つ。意識や考え方の違いからまだ才能を眠らせたままでいる
「開花型」と、古巣を追われるように退団した「見返し型」である。南海監督時代の江本孟紀、山内新一、松原明夫が「開花型」なら、
江夏豊やヤクルト時代の金森栄治、角盈男らは「見返し型」といった所か。その後の96年移籍での田畑一也と辻発彦、97年移籍の
小早川毅彦、そしてこの95年移籍のトーマス・オマリーも見返し型としてあまりに有名だ。オマリーら7選手が移籍してきた95年のヤクルト、
その中でも西村龍次との交換で近鉄から獲得した吉井理人は野村の代表作だった。
水面下でバタつき94年オフから3ヶ月以上かかってやっと成立したトレードの正式成立発表は、セ・リーグ開幕のわずか18日前。先に打診
したのは野村ヤクルトではなく「吉井を出すので西村を」と言った近鉄側だった。吉井は自身の希望だった先発に転向して2年が経過、しかし
93年は5勝、前年の94年は7勝を挙げるも防御率5点台。野茂英雄と仲が良く、前任者・仰木彬と何度もぶつかるなど納得いかない事が
あれば誰が相手でも物申す性格に監督鈴木啓示と球団も手を焼いていた。
トレード話は西村の拒絶や、年明け1月に起きた阪神大震災もあり一時は立ち消えになりかけた。西村の意思は固くキャンプ打ち上げ時には
球団代表に話が流れた事を確認したほどだった。それでも再び話が浮上し、3月11日にヤクルトが西村に通告。即答できない西村は移籍か
引退か悩んだが、野村との会談を含むヤクルトとの8日間に及ぶ4度の交渉でようやく承諾し成立となった。
西村の不振は94年だけでプロ通算5年間で56勝、吉井より3年若い26歳という事から当時は野茂の穴を実力派で埋めた近鉄主導の
交換話であり近鉄が得をするとみられた。しかし、結果は吉井がプロ12年目で初の規定投球回クリアで7年振りの10勝、一方西村は
自己最低の5勝と期待を裏切り周囲の予想に反した。
反骨心をくすぐり、トレード決定当日スーツ姿で東京ドームに出向いた吉井に会うなり「我が恋人よ」とおどけて見せたり、対巨人戦4連続完投
勝利の際には「久しぶりにプロのピッチャーを見るなあ」と持ち上げるなど、1年通してゆとりのある先発ローテで起用した“工場長”野村の
力は勿論大きいが、捕手・古田敦也の巧みなリードによるところも多分にあった。吉井、西村のその後の成績に限らず、テリー・ブロス、田畑、
野中徹博、廣田浩章ら再生工場出身投手の他球団所属時代の成績を見ると、現場を預かる“古田部長”の功績も工場長と同等近くに評価
されても良いのではないか。 (了)