12/03/31 10:08:22.61
>>270
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(つづき)
イデア論について―永遠の美・永遠の善
プラトンが考えていた「見る」ということは、この肉眼つまり実際の目で物事を見るということではありませんでした。
目や耳などの感覚は、人によって違うのです。例えば、味覚が一番わかりやすいでしょう。同じ食べ物でもその味は人によって違ってくるはずです。
また実際の目で見たものは、時間によって変化し続け、簡単に姿を変えてしまいます。プラトンは、このような体の感覚をあまり信用しなかったのです。
プラトンは、このことをギリシア語でドクサ(思いなし)と呼んでいます。ドクサとは、英語で言えばseem「~のように見える」「~のようだ」という意味です。
しかしこのような話を聞いていても、イデアというものは本当に存在するのかと皆さんは思うでしょう。すでにプラトンが生きていた時代にも、このイデア論を疑う人がたくさんいました。
そしてプラトン自身も『パルメニデス』という本で、自分で創ったイデア論に疑問に思い、イデア論に間違えがあることを認めていました。
何人かの学者たちによると、プラトンは自分で創ったイデア論を全てなかったことにしたのではないかとさえ言われています。
プラトンは「つくる・つくられる」という考えから、全てのものは、イデアのコピーであると考えました。しかし、こうした「つくる・つくられる」という考えは、物を言わない作り物にしか当てはまらないのです。
プラトンは、机のイデアや馬のイデアなどを語っていますが、イデアは永遠に存在するものです。つまり、イデアのコピーである地上の机や馬も永遠に存在しなければなりません。
ところが現実の机は、やがて壊れたり腐ったりしてなくなってしまいます。
プラトンのイデア論では、この地上の生き物の成長や変化、さらには運動などを説明することができないのです。
哲学の未来へ
このようにプラトンのイデア論は、作り物には当てはまっても、生き物には当てはまらないものだったのです。
しかし、自然界の運動や変化をうまく説明できず、自然界を寂しい作り物のかたまりにしてしまったのです。プラトンにとって、この地球上の物は、生命のない単なる材料だったのです。