12/09/22 18:37:27.15 9meKUWg70
>>209
おう、ありがとう。これが回答かな・・・
>>1990年に長崎大学教授に就任後、翌年の1991年から現地に入り、甲状腺がんの子どもの診療をした。
山下は「母親とも触れ合う中、被災地が長崎の隣にあるような感覚になった」と語っている[29]。
この時までは「(被爆)二世だから、何かしなくては」という気持ちはそれほど強くなかったが、
「放射能が胎児に及ぼす影響におびえる母親の質問に『実は私も被爆二世ですが、こんなに元気です』と答えた途端、
その目に漂っていた不安があっという間に消えた」ので、被爆二世が大きな意味を持つことに気付いたという[30]。