12/10/14 20:09:26.32 qiD+/gTY0
>>261 >>257 >>258 >>259
1677年11月、延宝三陸地震(M8クラス巨大地震)の7か月後に起きた、
延宝房総地震のM8.0ってのは、
房総沖・長さ150キロの断層で仮定して、暫定的に計算したもの。
だが、平成に入って、東大などの研究者らが、古文書や地質調査などから
判定した実際の被害推計では、
とくに宮城県~福島県~茨城県沿岸部の被害は甚大であり,
M8.2という巨大地震、元禄関東地震が招来した、
元禄津波より大幅に上回った。
1677 年延宝房総地震では、
現在の宮城県南部沿岸である、
塩釜や岩沼にまで、5メートルの大津波が押し寄せ、
200人前後が溺死したと見られる。
この被害は、M8.2という巨大地震とみられている、昭和三陸津波、
1960年のチリ津波より大幅に上回っている。
また、房総半島沿岸に遺されている、古文書の記録を総合すると、
1677年・延宝房総地震では、
千葉県外房~茨城県~福島県の沿岸を、
8m~10mの巨大津波が襲ったことになる
また、延宝房総津波被害の最南端の、
八丈島における実地調査では、
西岸の大賀郷谷ケ里に、慶長,延宝,元禄などの歴史津波が
遡上した記録が発見された。
現在、谷ケ里は八戸(やと)と呼ばれ、1960年代初期に築港した
八重根漁港奥、谷間の傾斜地である。
八丈島における古文記録では、
「延宝房総津波は、谷ケ里の半ばまで遡上」とあり、標高を考えると
10mクラスの巨大津波が、伊豆諸島に襲来したことになる。
伊豆諸島~仙台平野の範囲で、これだけの
広域巨大津波をもたらしたとなると、
1677年11月の延宝房総地震の、推計M8.0というのは、著しく過小すぎる。