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1770 『旅菴全書』「彊界考」の<按ずるに、輿地志に云う、「一説に于山、鬱陵本一島。」而るに諸図志を
考えるに、二島なり。一つは則ちその所謂松島にして、蓋し二島は倶に是れ于山国なり。>を底本
に、『東国文献備考』「輿地考」が <輿地志に謂う、鬱陵、于山皆于山国の地。于山は即ち倭の
所謂松島なり>安龍福事件(1693)で、<安龍福証言「松島即ち于山島」>の曲解証言(『粛宗実録』)
で知った、「松島」名を古来の『輿地志』の于山に強引に結びつけたものと思われ。もともと松島
(現・竹島)所在が未把握だから「松島」「竹島」名は鬱陵島付属小島(現竹嶼)に収斂され「松竹島」に。
長久保赤水「日本輿地路程全図」。「隠州視聴合記」からも引用。長久保は鬱陵島を日本領と誤認。
1785 林子平「三国通覧輿地路程全図」。「竹嶋」を<朝鮮ノ持也>。当時の竹嶋は鬱陵島のこと。
1787 フランス船が鬱陵島を発見。ダジュレー島と命名。89年イギリス船も発見しアルゴノート島と命名。
同じ島だが経緯度の違いで別の2島化。日本寄りにダジュレー、朝鮮寄りにアルゴノート島となり、
ダジュレーが松島に、アルゴノートが竹島に。1854ロシア船の測定でアルゴノートが不正確と判明。
1849フランス船[リアンクール]号竹島を発見。54年ロシア、55イギリス[ホーネット]。一時3島併存。
1870年代アルゴノート消滅。1900年代ダジュレー(or松島)、リアンクール(orホーネット)で確定。
シーボルトがダジュレーを松島、アルゴノートを竹島にしてたが、アルゴノート消滅で竹島も消える。
1801(享和元年) 「長生竹島記」にも、松島をもって「本朝西海のはて也」