06/11/22 22:24:20 HKHR0B3l
カタキという観念は集団から許容された行為だと思う。日本では親のカタキは昔は
許されたわけだから。つまり客から許容される敵への仕打ち、復讐というわけ
だろうけど。つまりね、儒教的世界なんだと思う。菊と刀の世界。
そういうことに呪縛されてるのがあってもいいけど、あまりにテレビ的でせつな的。
こういったことに立向かったのが山中や溝口、小津なんじゃないの?
彼らは日本人の中で西洋的視点を持った外国人だったんじゃないかと。
具体的には、ことごとく儒教を嫌っていたのではないかと思われる。
溝口ならば雨月物語の滑稽な武士に憧れる男の描き方、レイプされる女の足の裏。
小津ならば、初期のアメリカ映画の模倣、「私、ずるいんですよ」という東京物語。
山中ならば、武士が自殺するという人情紙風船。人の命は紙風船のように・・・
増村にしても成瀬にしても、清順もそう。
中期のやくざものや曽根や神代なども。深作は別。今村もダメ。
つまり、日本の古典芸能なんかに影響されていない。世界で普遍的なもので
あって、日本映画ではない。世界映画なのだと思う。
日本映画はまだひとつも無い。日本という国を描いた映画はいまだ無いという
ことでしょう。日本映画=日本の古典芸能・文化ではない。
日本映画=日本の国を描く。つまり侵略して殺害して戦後何食わぬ顔しているとか
憲兵が暗殺したとか、今なら政治家が銀行とグルになって国民をいじめてるのを
全然違う役柄で描くとかでしょ。
日本の歴史をドラマに投影してごらんってこと。映画作家がしてるのはそういうこと。
クドカンが国を描いている?池袋を描いても日本は描けていない。
西洋的視点も持っていない。つまらない武士道=儒教しか描けない。
つまらない映画は総じて儒教だと思う。