06/08/16 18:22:32 kABCOdd4
>>842-843
あのさ、創作ってのは結局、フロイトに帰結するモノなんじゃねぇか?
原初の願望の具現化。 性欲、愛情、統一感、相互欲求の同意とか。
恋愛というのが「利害の一致」を確認する行為である事と同じように、
映画を観るという行為が、その中で表現されている事を
容認し同意し共感して、観客は映画を観る行為に快感を覚えるんだよ。
でもさ、そういうモノって、結局は自己満足の枠組みからは一歩も出られないじゃない。
提示された「実物の愛」とやらに、自分はどれだけの信じる確信が持てるよ。
自分がソレを信じ込めば主観的にソレは「実物の愛」に限りなく近づくけど、
客観的にソレを自分が信じるに値する「実物の愛」と認識するには、「根拠が無い」。
映画を観る観客は、劇中で語る恋愛劇が所詮他人事であるが故に、その中で起こる事を
適当に容認できる。 よって、自己満足の結末に何の疑いも無く同意できる訳。
押井守映画が、そういう同意を持てない結末にしてるのは、醒めた現実の価値観を
投影する事で、そのテの願望を自分から退けたいからじゃないかな。
リアリズムが無いから。 ・・・なんてな。 どうでもいい話なんだ個人的には。