05/02/18 19:37:00
伊達の騎馬鉄砲隊は伊達家重臣の片倉家によるものであり
死ぬ確率が非常に高いので、跡取りに不安のない家から選抜されたそうである。
また銃といっても銃身の短い鉄砲を使っていたようだが、狙いなど定まる訳がなく
ただやみくもに乱射して終わりだったようである。
真田軍はこの片倉家騎馬鉄砲隊の射撃を身を伏せて耐え、
射撃が終わった所を槍ぶすまを作って一気に反撃に出たと言う。
「伊達に片倉あり」と伊達家家臣団最強を謳われたさすがの片倉隊も
真田軍の猛攻に無傷のものはいなかったと言う。
伊達軍そのものもこの戦で大いに消耗し、真田軍がしんがりを務めた西軍の撤退を
追いかける気力も体力も残っていなかったいう。
更に翌日の最終決戦でも伊達家は消耗が癒えず、戦いに参加していない(これについては諸説あるが)
またこの日の夜、幸村はお梅らを片倉重長に預けている(この経緯も諸説ある)
片倉家は後に家紋を六連銭に改めている事から、重長がこの日の幸村の戦に衝撃を受けたのは間違いないだろう。
衝撃を受けたのは重長だけでなく、幸村の首検分後、幸村にあやかろうと
幸村のさらし首から毛髪を抜き取っていく武将もいたと言う。