04/08/31 17:50 BBBywf+4
ブレランにおいてデッカードがレプリなのは、映画の世界観のせいではない。
スコットがそういう風に作ったからだ。スコットがフィルム・ノアール仕立
てにしたい一新(謎解きを増やせと脚本家と大喧嘩したらしい)で、そういう
謎解きを入れたからである。原作も読まないような監督に、ディックの世界観を
尊重しようなんて気があるわけがない。買いかぶりすぎ。
自分が誰だか分からないというプロットは確かにディックの十八番ではあるが、
映画はまだそういう世界ではない。なぜなら「自分が誰だか分からない」のは、
記憶を持ったレプリの登場がなければあり得ないことだから。記憶を持った
レプリは、映画の中ではデッカードとレイチェルだけである。たった二人である。
そういう存在が街にあふれてはじめて、アイデンティティ・クライシスが蔓延する
時代が訪れる。映画は、そういう時代の到来を予告しているだけである。
人間として紹介されたレイチェルにVKテストをすることを頼まれたデッカード
が、「何の意味があるんだよ?」と言ったり、レイチェルが「あなた自身はVK
テスト受けたことがある?」と言ったりするのは、それまでVKテストが「人間
であることを確かめる」ために使われたことがなかったことを示しているのだ。
価値観の転換が起こりつつあるわけだ。