04/02/29 10:24 ikn564Aa
「別れのワイン」と「祝砲の挽歌」に関する比較論考
「祝砲の挽歌」は、ミステリとしての興趣が薄いだけではなく、
その他のドラマ部分についても魅力を欠くのは、名作の定評がある
「別れのワイン」の焼き直しに過ぎない(ドラマとしての基本的な構図が同じ)
からではないかと思われる。
ここで簡単に両作品を比較してみることにしよう。
1 「別れのワイン」の犯人役エイドリアンは、秘書から慕われているが、
単なるビジネス・パートナーとしか見ていない。
「祝砲の挽歌」の犯人役ラムフォードには、画面上では女性関係は
一切登場しない。
彼らが愛情の全てを捧げているのは、人間ではなく、ワイナリーであり、
陸軍幼年学校という組織体である。
2 彼らが、全身全霊で愛を捧げた「もの」を奪おうとする者(「別れのワイン」の義弟、
「祝砲の挽歌」の創立者の孫)を殺害するに至る展開は、衝動的か計画的かの違いは
あれど、モティーフとしては全く同様である。
3 犯人サイドの視点から離れて、客観的に見ると、両作品におけるガイシャが意図した、
ワイナリーの大資本への売却、陸軍幼年学校から共学の短大への転換は、
必ずしも不当で誤ったものとは言えないようにも見える。
経営状況によっては、むしろ時代の要請に合ったものと言えなくもない。
4 両作品ともに、探偵役であるコロンボ警部と犯人との間に人間として共感し合える
接点が存在する。エイドリアンとは同じイタリア系であり、
一徹な軍人のラムフォードに対して、コロンボにも軍隊経験がある。
およそ接点というものが感じられない現代アメリカ(制作当時)
における上流階級に属する犯人を相手にすることが多いコロンボには珍しい例と
言える。
5 結論としては、同じ構図のドラマを見せられても感興は薄いということである。