07/09/06 09:53:15 ZxpMYzYm
>>449
言わんとするところは解るけど、仮に
「私的な潔癖や徳義にこだわ『らない』『ってはならない』」
だとしたらそれも、個人的判断の範疇に含まれるとはおもわんかね?
当時命令を受けて実行した人間も、その話を数十年後に知る人間も、
その起きたことに対して何も「感じない」わけが無いだろう。
起きたことから何かを感じ取るのが人間なわけで、
感じることと感情的になることは違う。
客観的に判断するといっても、判断基準は誰か人間が作ったものであって、
人間が作る以上、そこには作った人間がその時感じていたものが
大なり小なり加味されているものだと思うよ。
仮に機械的に判断基準を作るとして、その機械的判断を出力する仕組みを
作るのは人間。ゼロから機械ができあがって、そこから判断基準が
人間の意思決定無しに作られることは無い。
「感じる取る」には「事象の因果関係に思いを馳せて考える」が含まれるけれど、
「感情的になる」とそれこそ個人の強い思いがフィルターとなって見えるものも
見えなくしてしまうんじゃないかな。
だから、感じ取ったものが判断根拠になるのが普通の人間だろう。
そしてその感じ取ったものに従って最終的な決断を下すか否かは
その人間の価値観とか意思や想いに依存するわけで。
否定派の人たちは、
「何も感じず何も考える必要は無い。結論は決まっているのだから」
というスタンスだけれど、そっちのほうがよほど危険だと俺は思うよ。
以上、チラ裏スマソ