08/04/30 19:02:24 m5/2/T6H0
聖書だの、ユダヤだの、キリストだの、メイソンだのという
この世界の不当性の“顕現”について語ること=“まつわる”こと自体が
“多少”は不当性を帯びる側面があるため、自分でも大概にしたいと思うが、
(かといって今の世の中、聖書的、ユダヤ的、キリスト的、メイソン的な
ものに満ち溢れているので、それらを全て一掃できるような自信もないが)
とりあえずは一応の暫定的なものとして、極めつけられたらなと思う。
結局聖書的であることとか、聖書的で“あろう”とすることとか、
聖書的で“あろう”とする“瞬間”などが何を指すのかといえば、
それは「自己愛性人格(ユダヤ)」であることや、「犠牲愛(キリスト)」であることや、
「寄生的頭蓋結合URLリンク(x51.org)(メイソン)」であることや、
それらの組み合わせ(三位一体)であることであろう。
国別でいえば、特に自己愛性人格であることはイスラエル(ユダヤ教発祥の地)であり、
特に犠牲愛であることは古代ギリシャ・ローマ(キリスト教発祥の地)であり、
特に寄生的頭蓋結合であることはイギリス(メイソン発祥の地)であり、
それらの集大成であることはアメリカであろう。
これらのうち、犠牲愛であること=新約聖書の文面に沿うこと=古代ギリシャ・ローマであることが、
すでに過去のものとして無力化されている側面があるのに対し、自己愛性人格や寄生的頭蓋結合であること=
旧約聖書的であったり新約聖書を裏読みしたりすること=イスラエルやイギリスであることが
今現在も活発に有力であり続け、実際それらの集大成であるアメリカにおいても、
犠牲愛であることよりは、自己愛性人格や寄生的頭蓋結合であることのほうが優っている。
犠牲愛であることと、自己愛性人格や寄生的頭蓋結合であることの相違点は、
犠牲愛であることがどこまでも完全に厳密に不当であることであり、○○であるのに対し、
自己愛性人格や寄生的頭蓋結合であることはただ単に不当であったり、根が不当でありながらどこまでも
完全に厳密に正当であろうとすること(もちろんこれもまた正当か不当かでいえば不当である)
であり、○○みそ、○○みそテクニックであるということだ。
正当か不当かを問う一意的な議論だけでは、今の世の中の問題は見えてこない。
むしろ今の世の中、どこまでも完全に厳密に不当であること=○○であることは
どこまでも完全に厳密に正当であること=みそであることと同様に矮小化されている。
そしてどこまでも完全に厳密に正当であることでも不当であることでもなく、
ただ単に不当であることや、根が不当でありながらどこまでも完全に厳密に正当で
あろうとすること(もちろんこれもまた正当か不当かでいえば不当である)=○○みそ、
○○みそテクニックのほうが、今の世の中における中心的、本質的、原則的な問題にほかならぬ。
ゆえにこそ、ただ単に不当であったり、根が不当でありながらどこまでも完全に厳密に正当で
あろうとしたり(もちろんこれもまた正当か不当かでいえば不当である)するよりは、むしろどこまでも
完全に厳密に不当であれ。○○であれ。さすればどこまでも完全に厳密に正当であること、みそであることと
>>578の議論に基づいて和解を果たす余地があるであろう。そしてさようなら、○○みそテクニック。