10/07/25 14:28:57 0
(>>1のつづき)
これに加え、わが国のネット文化の特徴としても、匿名志向が強いことはよく知られている。
たとえば匿名ブログの数は、海外と比較しても突出して多い。
公共性を志向するはずのブログですら、しばしば匿名で発信されているということ。私はここに、
わが国における「匿名性」と「公共性」をめぐるねじれた関係があるように思う。私たちにとっての
公共性とは、まず第一に「匿名である自由」によって支えられているのではないだろうか。
同様に、私たちにとってのプライバシーとは、「個人情報をコントロールする権利」であるよりは
「匿名である自由を侵されない権利」となってはいないだろうか。
匿名性そのものが問題というわけではない。匿名や変名によって発揮される創造性というものは
間違いなく存在するし、その意味では匿名掲示板にも多くの有益な情報が含まれている。
問題は「匿名である自由」を行使するとき、人がしばしば「退行」におちいってしまうことだ。
つまり意識が一時的に、より未成熟な状態に逆戻りしてしまうのである。これはなぜだろうか。
匿名性は自らの存在を、他者に対してのみならず、自分自身に対しても隠蔽してしまう。
それゆえ第3の視点に立って自己を客観視することが、きわめて困難になってしまうのだ。
自らを客観視する視点を失うと、世界に自分と相手の2者関係しか存在していないかのような
錯覚がもたらされる。そしてほとんどの3者関係は、その起源である母親と子供の2者関係に
限りなく近づいていく。
つまり、匿名性の下で退行した個人の心理状態は、依存と攻撃との間を揺れ動く幼児の心に、
きわめて近いものになっていくのだ。
駅員への暴力対策としては、一切の暴力を容認しない、いわゆる「ゼロ・トレランス」対策が
有効であるとされる。これは退行を予防するという点からも意味がある。しかし、それだけでは
十分とは言えない。
私たちは少なくとも、「匿名性」が持つ可能性と限界の両面を、共に十分に理解しておく必要がある。
そのためにも、「匿名である自由」がしばしば公共性を侵害してしまう現実に、いっそう自覚的で
あるべきなのだ。(以上、抜粋)