10/03/13 00:19:43 DPcdqq1w0
>前スレ1000
>理詰めで説得することも可能だぞ。
>自由も民主主義の価値も、黒人やユダヤ人の価値も、
>弾圧の下でも訴えることができるし、そうしてきた。
黒人なんかまさに典型だが、『アンクル・トムの小屋』のように、
物語がそうした政治的役割を果たすこともある。
僕は現実の小児性愛に価値があるとは思わない。
児童が現実の行為において保護されることは、十九世紀以降、複雑化した産業社会の中では、
きわめて合理的なことだと考えられるからだ。
しかし、それは僕の思想に過ぎない。
僕は自分の知性を一切信じていない。もちろん、多数者や社会の価値観も信用しない。
他のあらゆる価値体系が、僕の中の価値観に取って代わる可能性を有しているし、
社会の価値観も同様であると考えている。
その代替する価値が、常に僕のちっぽけな知性で理解できるものであるなどとは思っていないし、
それはおそらく社会の大多数の人間にとってもそうだろう。
僕は知性によって導かれた、理詰めの結論ばかりが自由意志ではない、と考えている。
非理性的な物語や、直情的なポルノグラフィにも、そうした社会を変革しうる価値を見出される。
(実際、ミラボーやサン・ジュストがポルノに期待していたのは、そういう価値だろう)
今の価値観を、あるいは理性を飛び越えて、破壊的にポルノが変革してしまうかもしれない。
そうだとしたら、それはポルノが正しかったのだ。人は自由に、ポルノの描く爛れた世界を肯定したのだから。
そうした変革の果てに、僕の現在の思想に反して、小児性愛が肯定される世界がくるかもしれない。
僕は気持ちが悪いと思うし、現在の社会からも否定されるべきものだろう。
しかし、その社会でそれが肯定されるのなら、それは肯定されなければならない。
それが民主主義と自由主義の出す結論なのだから。
まあこれは僕の信仰告白だから、聞き流してもらっても結構だけど。