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>>122【続き】
総括
総括とは、本来は過去を振り返る「反省」を意味した。当時の左翼の政治運動家の間で好んで使われた思考法である。
しかし、連合赤軍では次第に総括が儀式化し、実態は私刑と化していった。連合赤軍の実質的リーダーであった森恒夫と永田洋子の2人は「殴ることこそ指導」と考えていた。
殴って気絶させ、目覚めたときには別の人格に生まれ変わり、完全な共産主義を受け入れ真の革命戦士になれるという論理を展開し、
部下にも強いたが、絶対的上下関係の中ではその思考は疑うことができないままに受け入れられるしかなかった。
総括はあくまでも援助であり、「お前のためなんだぞ」といいながら殴り倒した。
メンバーの一人は「俺のことを小ブル主義者と呼んだだろ」と口走ったことで、個人的な怨みで総括を行っているとして、総括要求された。
散々殴られたうえにロープで吊るされ、さらに激しい暴行を加えられ、1971年12月31日死亡した。
メンバーは総括で予期せぬ死者を出したことに一時は動揺したが「総括できなかったための敗北死」と解釈し、さらに総括をエスカレートさせた。
虐殺
「総括」は建前は相手を「革命戦士として自ら更正させる」ことを目的としており、周囲のものが暴力をふるうことは「総括援助」と称して正当化された。
その際のリンチは非常に凄惨で、激しい殴打を伴った。女性は逃亡を防ぐためとして髪を切られ、被害者らの死因は殴打による内臓破裂や、
氷点下の屋外にさらされたための凍死であった。
森や永田を不快に思った発言をした幹部メンバーには言い掛かりをつけ「死刑」を宣告した。「死刑」の際、参加しなかった幹部メンバー1人も同様に「死刑」にされた。
この「死刑」は「総括」とは異なり、相手を殺害することを目的としたもので、アイスピックやナイフで刺された後に絞殺された。
森や永田に睨まれたら殺されるという考えがメンバー全員にあったことが、関係者による回想からうかがわれる。
1971年12月末からの約2ヶ月半の間に死亡したメンバーは12人(内女性は4人)にも上った。死亡者の中にはメンバー同士で恋仲だったり、
兄弟であったりしたものもいた。中には妊娠8ヶ月の女性メンバーもいた。遺体はすべて全裸で土中に埋められ、榛名ベースは放火されるなど証拠隠滅が図られた。