10/02/07 10:53:24 TGV08H/o0
村国家同士の戦いは有ったが(倭国大乱)、弥生人 Vs. 縄文人の戦いなんて、
とうに考古学的に否定されているよ。初期に倭人が到来して、水田稲作をして
いた北九州の代表的な遺跡、福岡・曲が田遺跡では、同じ村落共同体に
縄文土器60%and弥生土器40%。両者は、この比率で、「曲がり田」に共生して
おり、戦いや階級差の痕跡は無い。ここから出土した壷底の米は、C-14で、
1,500BC。日本最古の水田稲作が示唆されている(韓国より500年早い)。
しかし、曲がり田遺跡の近所には、水田は発見されていない。周辺市町村の
地下に埋没しているのかも知れない。よって、この 1,500BC 米は、日本最古
の水田の証拠とは、されていない。目下、日本最古の水田は、佐賀県・菜畑遺跡
の 700BC と言う事に成っている。ここは、縄文式土器しか出土せず、
これにより、日本では、縄文人のイニシアチブで水田稲作が始まったとされて
いる。菜畑村には、縄文人が侵略されたり、弥生人が武器を使って侵入した様な
痕跡は無い。280AD頃、奈良に大和朝廷が開かれてから、東北・蛦の特産品の
土器が急激に大和盆地に流入して居る事が考古学的に認められる。奈良では、
東西の特産品の市が開かれ、縄文人と弥生人が交流し、首都として急速に発展
した形跡が有る。東北の縄文人は、好奇心が旺盛で、自ら首都の渡来人の所に
接近し、熱心に物々交換し交流を計っていた。静岡では、丁度、北九州の
「曲がり田」遺跡の様に、縄文人と弥生人が、同じ村に共生して、共同で
水田開発を行った事が分かる遺跡が発見されている。同じ村に縄文式墓と
弥生式墓が平存し、農機具も縄文式の物と弥生式の物が出土する。縄文人は
弥生人によって東北に追いやられたのでは無い。地理的に、九州や近畿より
東北部の混血の時期が、やや後に成っただけである。両者の混血は、現在進行中
であり、北海道のアイヌとの間に於いても、同様で有る。九州で始まった混血は、
ゆっくり北上し、3,000年を経た今も継続中である。