09/12/27 12:24:40 GbPVXqTO0
>>485
>三代目襲名(1/4) URLリンク(www.youtube.com)
■■■ 三国人の暴力から日本人を守ったのは警察官ではなくヤクザだった。■■■
「大阪・焼跡闇市」昭和50年 大阪・焼跡闇市を記録する会編 夏の書房
(戦後の大阪で)実力制覇をほしいままにした集団に、土地を不法占拠したまま店をはる、暴力的な闇商人の一群があった。
彼らは戦前の繁華街、梅田、難波、心斎橋筋をはじめ、市内各地の焼跡に一夜づくりのバラックを構え、
人の私有地であっても その管理人や地主の承認なしに家を建てていった。
そして店をはり、地主が建物の取り除きや立ち退きを要求すると 逆に法外な立退き料や賠償金をふっかけたり、
実力沙汰で暴行脅迫したのである。
また取引をめぐっても、恐喝・暴行による強盗まがいの不法が絶え間なかった。
まさに恐怖と隣り合わせの無法地帯であり、おまけに この闇商人の中に、
当時三国人といわれた台湾省民や中国人・朝鮮人が加わっていたことが、民衆の感情をよけい複雑にさせた。
元北区・曽根崎防犯部長はこう回想する。
『敗戦の傷跡もいえない曽根崎で、今日もまた、同胞一人が三国人の手で後ろ手にしばられ街頭を引きずられて行った。
明日はどうなることか、町の人たちは誰もが この情景をながめて、歯をくいしばり涙をためて見送っていた。』
(「そねざき」曽根崎防犯協会 昭和41年)
(中略)
このような暴力化した社会に どう対処するか、暴力と強奪から民衆の一所懸命の生活をどう守りきれるか―
この二点こそ 戦後警察に求められ、期待されるところであった。
だが、こと「暴力」に対して警察・取り締まる側の姿勢には、どこか徹底を欠くものがあった。
面前で集団暴行を受ける民衆がいても、事をおこさぬ場合が再三あったし、
敗戦直後、日本人業者と三国人業者の利益をめぐっての騒ぎが頻発した時、警察は紛争鎮圧の用兵として、
暗黙ながら暴力団の実力をアテにしている。
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