09/12/23 16:49:57 vdToNrYn0
現代の日本において何故、天皇という神格的崇拝となる一家系とその制度が憲法条文となっているのか。
それはその制度を “ 許容する国民 “ の自然認識や思考基盤が、即物現実である唯物的自然観そのものだからである。
この者達は無神論者であって、現実として世界に群居する、局在する物質状態だけが存在の全てと考えるのであり、
その独立単体でもある “ 私個人 “ の利得充足のみが、唯物的帰結としての “ 一回限りの人生 “ での最大の価値となる。
東洋人の唯物的自然観を社会規範に持ち込むと、ポル・ポト政権の虐殺や金正日政権の個人崇拝独裁政治が始まる。
一個人である天皇の神格的崇拝は当にこの唯物的自然観の象徴であり、それは即物拝金主義となり階級制の容認となる。
さらに自然における独立単体のそれぞれは、相互にそれ以上の関連を持たないとする “ 唯物的自然観 “ によるのだから、
相互に独立する個体の各々は、自己個体の存続と利益である “ 利己的自己保存本能 “ の追求に終始するために、
弱肉強食のような原始生存競争が人間社会の原則として肯定されることになる。
そのような唯物的世界観の中で、人類共存を理想とするソビエトは相互扶助のために社会独裁によって自由を制限したが、
しかし物質全般の微細領域では、存在の全てが“ 一体的汎関係性 “ である可能性があり、
これは敵対する人間相互であっても、存在の根源領域では “ 連続体 “ であることを意味する。