09/12/18 22:16:17 jHZicmJoO
>>294つづき
いざとなればそこへ帰れるといふ安心感は、私の思想から徹底性を失はせてゐるかもしれない。
しかしそんなことはどうでもよいことだ。
私は巣を持たない鳥であるよりも、巣を持つた鳥であるはうがよい。第一、どうあがいたところで、小説家として
私の使つてゐる言葉は、日本語といふ歴然たる「巣鳥の言葉」である。
「いざとなればそこへ帰れる」といふことは、同時に、帰らない自由をも意味する。ここが大切なところだ。
帰る時期は各人の自由なのであつて、「いざとなれば帰れる」といふ安心感があればこそ、一生帰らない日本人が
ゐるのもふしぎはない。私はこの安心感を大切にするのと同じぐらゐに、帰る時期と、帰る意思の自由とを大切にする。
人に言はれて帰るのはイヤだし、まして人のマネをして帰つたり、人に気兼ねして帰るのもイヤだ。
すべての「日本へ帰れ」といふ叫びは、余計なお節介といふべきであり、私はあらゆる文化政策的な見地を
嫌悪する。日本人が「ドイツへ帰れ」と言はれたつて、はじめから無理なのであつて、どうせ帰るところは
日本しかないのである。
三島由紀夫
「日本人の誇り」より