09/12/06 16:35:09 kJkuZ7nB0
>>387続き
禁門の変の際、砲声と宮女たちの悲鳴に驚いた睦仁は驚きの余り一時失神したという。
(引用者註:中山忠能日記
「親王南殿において御逆上、中御門等の近臣、水をとり走せ参じて進上、御正気」)
13歳といえば物心も付いた年齢であるが、この親王のイメージからは、とうてい乱世の国家を自ら支配する天皇になることは期待できない。
後に近衛兵に自ら大声で号令をかけ、相撲も強い、巧みに乗馬をはせて、落馬した土方宮内大臣に
「土方、大丈夫か」と声をかけた明治天皇とは全く一致しない。
(中略)
睦仁親王は幼少のときは虚弱児であった。
毎年風邪をこじらせるなど病気の問屋であったし、16歳になっても書は金釘流(←非常に下手)で政務もとらず、宮中で遊戯にいそしんでいたという。
しかし、
(翌年の)鳥羽伏見の戦いののちに自ら乗馬して官軍を閲兵した明治天皇は書は達筆であり、又驚くほどの体格で体重は24貫もあった。
慶応3年6月ごろを境にして、思考も体形も性格もがらりと変ったのであるが、そのいきさつは不思議にも一切『明治天皇紀』に記されていない。