09/12/05 19:36:25 OyG8xxE4O
>>121つづき
…自分の我意に対して、それを否定する力のあることを実感するほど、自我形成に役立つものはない。
猿蟹合戦ぢやあるまいし、「伸びろよ、伸びろよ、柿の種」と言つてみたところで、柿は伸びないのである。
万人向きのバランスのとれた教育、四方八方へ円満に能力をのばしてゆく教育、などといふものは、単なる
抽象的な夢であつて、子どもはそれぞれ未完成で、偏頗(へんぱ)な存在である。
個性などといふものは、はじめは醜い、ぶざまな恰好をしてゐるものだ。
美しい個性を持つた子どもなどどこにも存在しないのである。
それが一度たわめられなければ真の個性にならないことも見易い道理で、そのためには、文学書ばかり
耽読してゐる子からはむりやりに本をとりあげて、尻を引つぱたいてスポーツをやらせ、スポーツにばかり
熱中してゐる子は、襟髪をつかんで図書館へぶち込み、強制的に本を読ませるやうにすべきである。
かういふ強制力は、こまかい校則によつて規定することはもちろん、罰則のない法規もないのであるから、
妥当な罰則を設け、かつこの規則を実施する能力としては、先生にも、生徒を心服させるだけの腕力が要求される。
生徒の闇討ちをおそれて屈服するやうな先生には、先生の資格がないので、生徒はめつたに先生の知力なんかには
心服しないものである。さういふのは新制大学のころから、学生に知的虚栄心が目ざめて来てからの問題であつて、
大学教育といふものは、もつぱら知識の授受に尽き、もはや教育と呼ぶ必要はない。
ネリカン上がりが尊敬されるといふのも、少年の歪められた英雄主義であるが、ネリカンの生活が
苛酷だといふ伝説乃至事実が、どれだけこの英雄化を助けてゐるかわからない。
どこの学校もネリカン並みになれば、とりたててネリカン上がりが尊敬される理由もなくなるので、
少年不良化の防止になるにちがひない。
三島由紀夫
「生徒を心服させるだけの腕力を―スパルタ教育のおすすめ」より