09/11/26 22:19:01 Z+WM2jsyO
幕末の1861年2月 ロシアによる対馬侵略事件
1861年2月、ロシア帝国の軍艦ポサドニック号が対馬に来航。3月、ビリレフ艦長は水兵を上陸させ芋崎浦周辺を占領。
兵舎を建設に着手。 対馬藩主は抗議するも占領を継続、逆に食料を出せと要求される。
対馬藩主は幕府に救援を要求。
在日イギリス行使・オールコックは、ロシアが日本に建設中の対馬の太平洋進出基地に警戒し本国に作戦を進言
「もし、ロシアが対馬から退去しないならイギリスが攻めて
イギリス領にすべき。(中略)当然、他国はこれに抗議してくるだろうが
フランスは協力してくれるだろう。 何故ならフランスは朝鮮の金山に目を着けているからだ。
イギリスは日本の対馬、フランスは朝鮮釜山を分割すれ案をだせば味方にできる」
滅茶苦茶、ロシアもイギリスも侵略する気満々でした。
本当に有難うございました。
なお、対馬のロシア軍は大船越にも侵略を広げようとしたさいに
占領に抵抗する百姓・安五郎を殺したが、これが住民感情に火を着け
住民は女子供を疎開させ、男は猟銃で武装して警備部隊を作って対向した。
さらに福岡の田代にあった対馬藩の領地から300人の武士や百姓が海を渡って駆けつけて抵抗したため
8月にロシア軍艦は占領地を放棄してロ対馬を撤退。
危うく、ロシアに対馬をとられる寸前であった。
因みに、幕府は外国奉行・小栗忠順を派遣して対馬からの撤退勧告を行っていたが
ビリレフ艦長にウォッカを飲まされただけで交渉ははぐらかされていた。
結局は住民の武力防衛が対馬を守った結果になった。