09/11/13 17:04:57 QDnRtOEL0
紅衛兵は、街路や病院などの名前を、勝手に「革命的」なものに変更して回った。
例えば、ソ連大使館があった揚威路は「反修(反修正主義)路」、アメリカの資金で建設された協和医院は
「反帝(反帝国主義)医院」など。標識が撤去できなかったために変名を免れた道路もある。
紅衛兵は、毛沢東が学校の休校を命じると、自らの学校を破壊し教師たちに暴行を加えたり教科書を焼き捨てた。
その後学校が再開されると、教える人や教材もない有様で、中華人民共和国の発展に大きな障害となった。
当時まで粛清されずに生き残っていたかつて富農や官僚だった者が批判・迫害され、
吊し上げや殺害が盛んに行われた。ついには毛沢東の父が富農だったことを批判する壁新聞が出た。
文革中の中華人民共和国の切手は、毛沢東語録を中心とする「革命的」題材で埋め尽くされ、
スポーツ関係の記念切手に肝心のスポーツ場面が全くなくプロパガンダに終始していたこともあった。
文革期の中華人民共和国の新聞は、毛沢東語録の引用や毛沢東の写真に占領され、
その新聞をたきつけに使ったり尻に敷いたことで吊るし上げられた者が多数いた。
旧思想・旧文化の破棄をスローガンとする紅衛兵らにより、明王朝皇帝の万暦帝の墳墓が暴かれ、
万暦帝とその王妃の亡骸がガソリンをかけられ焼却されたという。
陶磁器や金魚、月餅など古い歴史をもつ商品の生産や販売まで「旧文化」とされ、
職人や関係者は帝国主義者として吊るし上げられた。
景徳鎮の窯や浙江省の養魚場は破壊され、陶磁器が割られたり金魚が殺されたりした
(一方で毛沢東などの指導者層は景徳鎮産の陶磁器を愛用した)。
文革の結果こうした伝統産業は壊滅的打撃を受け、その歴史は断絶。
生産手段や技術もほとんど失われたが、文革後一部では日本の関連業界や生産者の支援で再興されている。
纏足や女中などの古くからのしきたりも廃止されたほか、麻雀や闘蟋(とうしつ)などの賭けを伴うゲームも禁止された。