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・米軍普天間飛行場の移設問題で、意思統一ができない鳩山民主党政権。ぶれる閣僚らの発言を
揺さぶるように、8日には沖縄県内で「辺野古への新基地建設と県内移設に反対する県民大会」が
開かれるなど、県内世論の大勢は日米合意に基づくキャンプ・シュワブ沿岸部への移転反対に
傾きつつある。ところが、一番の当事者である辺野古地区を歩いてみると、全く違う反応が返ってきた。
現場の声をリポートする。
那覇から北へ約60キロ。県道329号線から辺野古地区に入ると、「WELCOME APPLETOWN」と
書かれた看板が目に飛び込んでくる。
「キャンプ・シュワブ」開設から間もない昭和33(1958)年、丘陵地帯だったこの地域を民政府土地課長の
アップル中佐が中心となって開発したことから、米軍と辺野古住民との友好の証しとして「アップルタウン」と
呼ばれるようになった。
街は区画整理されていて、15分ほどで一周できる。スナックやクラブなどの看板が目につくが、人けがない。
飲食店が入っているとみられるビルも英語のロゴが消えかかり、外壁が崩れ、朽ちている。
53年前に移り住んだという金城秀夫さん(59)=仮名、自営業=は、米軍統治時代からの辺野古を
身近に見てきた。「ベトナム戦争のころは、スナックやクラブなどの飲食店が60軒近く並ぶ米兵相手の
繁華街で、ホステスも1千人は超していた。当時の辺野古の人口は1500人ぐらいだったから、合わせると
3千人近い人が住んでいたことになる」「街全体が活気に満ちていた。どの店もホステスが7、8人はいて1日の
稼ぎも3千ドルはあった。当時、私の家は25坪の瓦ぶきの一軒家だったが、2千ドルで建てられた。それが
1晩で3千ドルのあがり。25セントあれば、子供とバスで名護まで行き、そばを食べて帰れた時代に、ですよ」
ベトナム戦争が終わると同時に、米兵の数も減って、街は急激に寂れていった。
「辺野古はこれといった産業がない。米軍基地相手の商売しかない。基地と一緒に育ったわれわれは
トラブルもあったが、同時に大変な恩恵を受けながら生きてきた」(>>2-10につづく)
URLリンク(sankei.jp.msn.com)