09/10/31 22:59:49 hm4Fx216O
>>158つづき
われわれがもしあらゆる宗教を信ずることに自由であるなら、どうして近代的法理念の
コンフォーミティーからだけは自由でありえない、といふことがあらうか?
又逆に、もしわれわれが近代的法理念のコンフォーミティーからは自由でありえないとするならば、
習俗、伝習、文化、歴史、宗教などの民族的固有性から、それほど自由でありうるのだらうか?
それは又、明治憲法の発祥に戻つて、東洋と西洋との対立融合の最大の難問に、ふたたび
真剣にぶつかることであるが、敗戦の衝撃は、一国の基本法を定めるのに、この最大の難問を
やすやすと乗り超えさせ、しらぬ間に、日本を、そのもつとも本質的なアイデンティティーを
喪はせる方向へ、追ひやつて来たのではなかつたか?
天皇の問題は、かくて憲法改正のもつとも重要な論点であつて、何人もこれを看過して、
改憲を語ることはできない。
…世俗的君主とは祭祀の一点においてことなる天皇は、正にその時間的連続性の象徴、
祖先崇拝の象徴たることにおいて、「象徴」たる特色を担つてゐるのである。
天皇が「神聖」と最終的につながつてゐることは、同時に、その政治的無答責性において、
現実所与の変転する政治的責任を免かれてゐればこそ、保障されるのである。
これを逆に言へば、天皇の政治的無答責は、それ自体がすでに「神聖」を内包してゐると
考へなければ論理的でない。
なぜなら、人間であることのもつとも明確な責任体系こそ、政治的責任の体系だからである。
そのやうな天皇が、一般人同様の名誉毀損の法的保護しか受けられないのは、一種の
論理的詐術であつて、「栄典授与」(第七条第七項)の源泉に対する国自体の自己冒涜である。
三島由紀夫
「問題提起」より