09/10/25 22:50:38 rF2l66hz0
現代の日本において何故、天皇という神格的崇拝となる一家系とその制度が憲法条文となっているのか。
それはその制度を “ 許容する国民 “ の自然認識や思考基盤が、即物現実である唯物的自然観そのものだからである。
この者達は現実として世界に群立する、局在する物質状態だけが存在の全てと考えるのであり、
その独立単体でもある “ 私個人 “ の利得充足のみが、唯物的帰結としての “ 一回限りの人生 “ での最大の価値となる。
一個人である天皇の神格的崇拝はまさにこの唯物的自然観の象徴であり、それは唯物拝金主義となり階級制の容認となる。
そこでは依然として弱肉強食のような経済競争が展開しており、それは加速激化するのみで平衝化することはない。
唯物論者は、もう既に未来は決定されており自由意志は存在しないとするので、凶悪犯罪者を処罰しない。
唯物論者は局在する物質状態が存在の全てであり、そのため相対性理論では高速運動による “ 双子のパラドックス “ が生じる。
しかし自然が唯物的であるのなら、世界の同時性はそれを決める根拠がどこにも無いのだから初めから存在しない。
時計はあくまでも暫定的な基準であって確実な根拠ではない。
人間の持つ素朴な感性である世界の同時性は、局在する物質を構成する微細領域には “ 一体的であるような汎関係性 “ が
あるからこそ、そのような同時的認識が生じる。 微細域に一体的汎関係性を想定するなら双子のパラドックスは生じない。
一個人や一家系が自然躍動の象徴などという憲法条文は人間の大罪である。
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