09/10/03 18:59:02 0
(>>1の続きです)
「日本の社会全体が、過去を見つめるというのがどういうことか分かっていないですね。
個人のことに置き換えれば、自分がなぜ失敗をしたのかを考えることは
大事だとみんなが言います。でもそれが社会のことになると、なぜ“否認”の方が価値があるのか」
否認。そう、この国では過去の過ちを直視することは避けられてきた。
戦争体験世代は「われわれも戦争の被害者」と言い、子や孫の世代は
「なぜ私たちに、父や祖父の行為の責任があるのか」と言う。
それを野田さんはたしなめる。
《侵略戦争についての無反省だけでなく、戦後の六十数年間の無反省、無責任、無教育、
歴史の作話に対しても、私たちは振り返らねばならない。
戦後世代は、先の日本人が苦しめた人びとの今日に続く不幸を知ろうとしなかったことにおいて、
戦後責任がある》と。
戦後責任とは重い言葉だ。
もちろん、日本国内でも戦争犯罪と向き合う人たちがいたし、二〇〇〇年に和解をみた
「鹿島花岡裁判」をはじめ強制連行の被害者への補償をめぐる訴訟なども起こされてきた。
だが本書には驚くべき記述がある。
日本国内で「画期的」などと大きく報じられた鹿島花岡裁判の結果に対して、
原告団長の耿諄(こうじゅん)さんが「すべて裁判は失敗した。私たちは裏切られた」
とまで嘆いている点だ。
「“和解”の直後から、原告側から抗議文が出されているわけですよ。
彼らは、人間の尊厳をかけて、これほどひどいことをしたのを謝ってほしいというのが軸にある。
それが一貫してお金の問題にされたと言っています。
日本国内向きの勝手な救済をしただけなのに、それを日本のマスコミはまったく検証しない」
(まだ続くです)