09/10/01 14:18:49 AchL3KX00
>>866
竹入と矢野は自分の経験を踏まえ、回顧録で「公明党は政教一致」「公明党は人事からカネまで
すべて創価学会の支配下にある」と指摘したが、それが池田の逆鱗に触れ学会の攻撃を受ける
ようになり、竹入・矢野も応戦するようになった。
公明党の結成当初は池田が直接選挙運動を指揮、党の役員はすべて学会の幹部が兼任し、学会
の幹部が選挙に立候補、党の政治資金も学会から出ていた。このため初期から「政教一致で憲法
違反」(ただこの点については法解釈はいろいろ)という批判を受けていた。また学会も新興宗教共通
のしつこい布教(折伏)で世間的には当時から嫌悪感を持たれていた。
こうした状況下で、公明党と学会は1969年前後、一連の「言論出版妨害事件」(公明党と学会に批判
的な本などの出版・流通を妨害するため組織的に著者や書店などに圧力をかけた)を起こし、憲法・
独占禁止法・宗教法人法などに違反したとして大々的な批判を受け窮地に立たされた。池田は責任を
認めて謝罪、組織改革を約束し、政教分離を宣言。公明党は人事や綱領を変更した。
以後公明党・学会の公式な立場は「党と学会は分離している」「学会はあくまで公明党を支持している
団体。党の人事や会計などに介入していない」「学会員個人には公明党支持を強制していない」という
もの。それに対し竹入と矢野は「公明党支持者の選挙運動は学会員の信仰活動そのもの」といった内情
を暴露。公明党の存立を脅かす証言であり影響が大きく、学会からすれば「池田先生が恥を偲んで謝罪
までなさったことを竹入・矢野は全否定した」から「仏敵」となる。
竹入と矢野は元々学会員ではなく、政治活動をするために公明党・学会に入ったので、あくまで宗教よ
り先に政治活動がある。神崎や山口那津男・浜四津は法曹の出だが元々学会員、石田幸四郎や太田
昭宏も元々学会員で学会関連企業(石田は聖教新聞、太田は公明新聞)に就職しそこで出世したので
公明党幹部の地位を与えられた。彼らは公言はしないが政治家である前に学会員であるという立場(た
だ冬柴はほぼ公言していた)。
竹入・矢野時代の公明党は田中派や労組と連携、敵視されていた警察の内部や役所にも勢力を伸ば
した。学会をここまで大きくしたのは池田ではなく自分達だという思いもある。