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>>1の続き
●会見開放は“一流メディア”にとっての「死刑宣告」か
筆者がニューヨーク・タイムズに入ったのは、ちょうど10年前の夏のことだった。
それ以来、さまざまなチャンスをみつけては、記者クラブ開放による、
権力とメディアの健全な緊張関係の構築を訴えてきた。
3年前には毎日新聞のコラム「新聞時評」で、記者クラブシステムについての連載をもたせてもらった。
1年前の夏には「ジャーナリズム崩壊」(幻冬舎)を書き、記者クラブの抱える病理を世に問うた。
さらに直後には、上智大学新聞学科や日本大学国際日本学科などで、記者クラブ問題についての講義をもった。
そのほかにも、出版社や地方紙主催の講演会や、京都大学新聞や日本新聞労連主催のシンポジウムで話をさせてもらった。
そして、今年の3月24日、ついに小沢一郎民主党代表(前)が、さらに5月16日には鳩山由紀夫代表が、
それぞれの会見の中で、筆者の質問に対して、首相官邸における記者会見の開放を約束したのだ。
いよいよ、その約束の日が迫っている。
日本のジャーナリズムにとっては「政権交代」以上に歴史的な日になるに違いない。
だが、それほどのイベントであるのに、ほとんどの報道機関が口を閉ざしているのはなぜか。
ビデオジャーナリストの神保哲生氏も指摘し続けてきたように、それには大きな抵抗がある。
(URLリンク(diamond.jp))
なにより記者クラブの開放は、それは、新聞・テレビなどの“一流メディア”にとって、
その日が「死刑宣告の日」に映っているからに違いない。
(続く)