09/08/28 11:25:29 1M0dpnfQO
>>418続き
日本のやうな国には、愛国心などといふ言葉はそぐはないのではないか。
すつかり藤猛にお株をとられてしまつたが、「大和魂」で十分ではないか。
アメリカの愛国心といふのなら多少想像がつく。ユナイテッド・ステーツといふのは、巨大な観念体系であり、
移民の寄せ集めの国民は、開拓の冒険、獲得した土地への愛着から生じた風土愛、かういふものを基礎にして、
合衆国といふ観念体系をワシントンにあづけて、それを愛し、それに忠誠を誓ふことができるのであらう。
国はまづ心の外側にあり、それから教育によつて内側へはひつてくるのであらう。
アメリカと日本では、国の観念が、かういふ風にまるでちがふ。
日本は日本人にとつてはじめから内在的即自的であり、かつ限定的個別的具体的である。
観念の上ではいくらでもそれを否定できるが、最終的に心情が容認しない。
そこで日本人にとつての日本とは、恋の対象にはなりえても、愛の対象にはなりえない。
われわれはとにかく日本に恋してゐる。
これは日本人が日本に対する基本的な心情の在り方である。
(本当は「対する」といふ言葉さへ、使はないはうがより正確なのだが)
しかし恋は全く情緒と心情の領域であつて、観念性を含まない。
われわれが日本を、国家として、観念的にプロブレマティッシュ(問題的)に扱はうとすると、しらぬ間に
この心情の助けを借りて、あるひは恋心をあるひは憎悪愛(ハースリーベ)を足がかりにして物を言ふ結果になる。
かくて世上の愛国心談義は、必ず感情的な議論に終つてしまふのである。
三島由紀夫
「愛国心」より