09/08/11 22:53:42 nwgqLXCc0
また、支持率低迷に喘ぐ麻生政権の「最後の切り札」として靖國参拝を、
と主張される方も散見致しますが、これも情けない話だと云わざるを得ません。
これほど露骨な「靖國の政治利用」はありません。
「どうせ下野するのだから、最後に一つ靖國の参拝だけは実現してくれ」などという「自称保守派」の評論家すら居ます。
御自身が自暴自棄になって、周囲に当たり散らすのは結構ですが、選挙はまだ始まってすらいません。
負け犬根性は願い下げです。全ての有権者の手から、用紙が投票箱の中に落ちるまで、勝負は決しません。
「靖國参拝をすれば、保守派が帰ってきて自民党に風が吹く」という主張も多く見られますが、
そんなことは決してないでしょう。
国民の多くは、何が保守で、何が革新なのかさえ理解しておりません。
いや、理解出来ないのではなく、我が国においては、こうした対立軸でものを考えることが
「普通の生活」の中ではないのです。
従って、潜在する保守派が云々というのは、極端な変化を望まない多数の国民の意思が、
結果として反映されることがある、というだけの話を、主義主張の結論として曲解しているのでしょう。
国民は極端な変化を好みません。それが保守だと云われれば、「そうかな」と思うだけです。
しかし、何々をしたから保守だ、しないから保守ではない、真の保守とは何々だ、
などという思考回路では決して物事を論じません。
麻生首相の靖國参拝が実現すれば、保守派の票が大量に戻ってくる、などというのは、全くの幻想です。
国民は理念ではなく、現実を生きているのです。「理念から現実へ」ではなく、
「現実から理念へ」と説くことが重要なのです。