09/07/19 08:11:07 zyi1ZPkf0
>>54
文禄元年(1592年)からおこった文禄・慶長の役で清正は朝鮮へ出兵した。
漢城攻略後は小西行長の一番隊や黒田長政の三番隊と共に北上を続け、
臨津江の戦いで金命元等の朝鮮軍を破るなど、清正の勇名は朝鮮に轟いた。
その後に行われた海汀倉の戦いでの出来事・・・
韓克誠の朝鮮軍を破り、咸鏡道を平定した時の事
朝鮮王朝の二王子”臨海君”・”順和君”を生捕りにし、数十名の家臣を捕虜にした。
清正の勇名ぶりは二王子の耳にも入っており、二王子はじめ捕虜の者たちは覚悟した。
二王子と捕虜の扱いを見た清正は家臣に激怒。
清正「馬鹿者!!」
「朝鮮王朝の王子であろう方々をこのように縄をかけて
よいものではない!!今すぐに縄目を解くのだ!!」
すぐに縄を解かれた二王子と捕虜の者たち。
ぽかーんとしている二王子に清正が語りかけた。
清正「臨海君・順和君、何か不都合あれば遠慮なく思うし付け下さい。
この清正、決して皆様をぞんざいに扱うような事は致しませぬ。
もし、狼藉働く者あれば、清正が斬って捨てまする。」
清正は捕虜とした二王子以下の捕虜達を丁重に扱ったという。
特に二王子に関しては常に敬愛を含んだものだったと言う。
後に清正は二王子を返還する。
二王子の釈放する場所まで清正は警護をしている。
後に釈放された二王子自身が、護送中の清正の博愛に満ちていた態度に
感謝を述べた書状を清正宛で贈ったと言われている。
さらに二王子は画僧に清正の肖像を描かせ、
廟堂に神として祀られたとされる。