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中国人による虐殺事件その② (1928年 済南事件)
昭和3年の4月、蒋介石は中国統一を実現させるため、国民革命軍(南軍)総司令
として第二次北伐の軍を進めた。全軍総司令官は蒋介石、参謀総長は何応欽将軍で
100万の大軍が4個の集団軍として編成されていた。これに対して張作霖大元帥
の北軍も7つの方面軍、兵力100万を有していた。4月7日北伐宣言を発した南
軍は4月中旬に早くも済南を包囲する態勢に入った。済南は山東省の商業都市で人
口38万を有し、諸外国人が多くここに住み、日本人も1810人が居留民として
ここに住んでいた。しかし南軍が北上するにつれ、済南が危機に陥った。南京事件
(1927年に日米英仏の公館が国民革命軍に襲撃され略奪、婦女暴行、殺戮が行
われた事件)のような事件がまた発生するかもしれなかったためだ。現地からの保
護要請を受けた田中首相は居留民保護のためやむを得ないと決断し、4月下旬に済
南に軍を出した(第二次山東出兵)。日本軍は現地に到着すると済南城に隣接する
商業地(居留民の大部分がここにいた)に、東西2か所の守備地区を設置して居留
民を収容保護した。しかし北軍が退却した後の5月1日、南軍が入市してくると恐
れていた事態が起こってしまった。済南事件で中国兵が日本人居留民に加えた残虐
行為は、まさに「中国式」で想像を絶する残虐さだった。
事件直後に惨殺死体を発見した南京駐在武官・佐々木到一中佐はその手記に次のよ
うに記した。
「予は病院において偶然その死体の験案を実見したのであるが、酸鼻の極だった。
手足を縛し、手斧様のもので頭部・面部に斬撃を加へ、あるいは滅多切りとなし、
婦女は全て陰部に棒が挿入されてある。ある者は焼かれて半ば骸骨となっていた。
焼け残りの白足袋で日本婦人たることがわかったような始末である。わが軍の激昂
はその極に達した」(「ある軍人の自伝」より)
この話は嘘でも誇張でもない。済南の日本人惨殺状況に関する次の外務省公電がこ
れを立証している。
「腹部内臓全部露出せるもの、女の陰部に割木を挿込みたるもの、顔面上部を切落
したるもの、右耳を切落され左頬より右後頭部に貫通突傷あり、全身腐乱し居れる
者一、陰茎を切落したるもの二、」とある。