09/06/21 14:39:23 0
(>>2の続きです)
午後1時頃、現場の数千人の民衆は、レンガの欠片や酒ビンによって警察の強奪を阻止し、
霊柩車は引っくり返され、数十人の制服を着た警官は、普段着の民衆に追い立てられ、
現場(永隆大ホテル)から500mほど離れたバス停留場に身を隠すはめになった。
停留場付近の主要道路は民衆で覆いつくされ、バスは仕方なく進路を変更したが、
大多数の乗客は全く不満がなかったという。
6月19日午後3時、現地警察による最大の強奪計画は、また失敗に終わった。
街頭に集まる民衆は、約4万人にもなった。民衆の数はこのとき最高潮となる。
石首市の地方政府は、やむを得ず武装警察に救援を要請した。
6月20日夕方、荊州などから集められた武装警察が到着した。
現地の民衆は小石や酒ビンで武装警察に抵抗した。多くの公安、武装警察の車両は
民衆によってひっくり返された。民衆が大量に集まったため、武装警察は撤退を迫られた。
6月19日夜、政府が6月20日午前5時に再度遺体を強奪することを通告したため、
数万の石首市市民は、すぐに街に向かい、永隆大ホテルの入り口だけではなく、
市の主要な交差点まで人の海で覆い、封鎖した。
6月20日午前2時か3時頃、500名前後の警察および武装警察が隊列を作ってホテル入り口に向かった。
付近のバリケードまで進んだとき、数千人の市民からレンガと小石で攻撃を受け、
警察と武装警察は再度撤退を強いられた。民衆の追撃は1キロほどにまで及び、
パトカーは引っくり返された。武装警察の撤退にも民衆は安心せず、
多くの人が引き続き自発的にホテルの入り口の護衛にあたった。
19日と20日午前早くの衝突で、数十名の市民が負傷したり逮捕されたりした。
警察と武装警察にも負傷者が多くあった。
事件の情報を統制するため、6月20日夜、石首市街のネットカフェは通信を遮断した。
永隆大ホテル一帯は、電気が遮断され、街灯も消えた。
入手した情報によれば、事件後、遺族と現地の民衆は、北京と武漢の報道機関に電話をかけたが、
石首に到着した記者は、政府職員に追い返されたという。伝え聞いたところでは、
19日、石首市の市委員会の緊急会議があり、各国家機関の職員が現場入りを許さないのだという。
(まだ続くです)