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400年前の大地震で一夜にして姿を消し「日本のポンペイ」とも称される
帰雲(かえりぐも)城(白川村保木脇(ほぎわき))。
城はどこにあるのか。村外者主体の有志グループが調査を続けて20年以上になるが、
城郭遺構の手がかりはつかめない。最近、村内からこの活動を支援する動きが出始め、
歴史ロマンはまだまだ途絶えそうもない。
「地震でほとんどが土に埋まっているが、そこには間違いなく誰かが住んでいた。
その物証を探し当てたい」。調査会事務局の野田秀佳さん(37)=羽島市=は力を込めた。
地震で一瞬にしてのみこまれた幻の城。真の姿に少しでも近づきたいとの思いが
粘り強い調査に駆り立てている。
会員は36人で、ほとんどは県内各地や名古屋市など白川村以外から参加。
帰雲城に関するさまざまな資料を集め、年に1、2回は現地へ。
保木脇地区の帰雲山やそのふもとにある庄川両岸を中心に、城郭の遺構を目視で探している。
今年も5月17日に現地調査を実施。「内ケ島氏が城の鬼門(北東)に白山神社を建てた」
との記述がある資料を基に、神社があったとされる場所から城の位置を推定して訪れたが、
強い雨のため中止を余儀なくされた。
今秋に再び訪れる予定で、野田さんは「茶わんのかけらでもいい。人が生活していたことを
示す証拠を見つけたい」と意気込む。
【帰雲城】
白川村史や1600年以降に書かれた「飛騨鑑」によると、1465年ごろ、室町幕府8代将軍
足利義政の命を受けた白川郷一帯を支配した内島為氏(うちがしま・ためうじ)が築城。
天正年間の1585年、マグニチュード8.1の大地震で城と城主ら500人が土に埋まった。
城の場所をめぐっては1985年、保木脇付近に「内藤城趾」と記した天保年間作製の地図が公表された。
この地図で庄川西岸説が有力視されるようになったが、後世に書き足されたとする見方が出るなど、
西岸か東岸か議論が絶えない。
ソース:中日新聞
URLリンク(www.chunichi.co.jp)
帰雲城(Wikipedia)
URLリンク(ja.wikipedia.org)