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↓台湾総督府民政長官でNHKの前身である東京放送局の初代総裁
後藤新平
経歴・人物
伯爵(明治39年(1906年)男爵、大正11年(1922年)子爵、昭和3年(1928年)伯
爵)。位階勲等は正二位勲一等。台湾総督府民政長官。満鉄初代総裁。逓信大臣、内
務大臣、外務大臣。東京市(現・東京都)第7代市長、ボーイスカウト日本連盟初代
総長。東京放送局(のちの日本放送協会)初代総裁。拓殖大学第3代学長。
計画の規模の大きさから「大風呂敷」とあだ名されたが、日本の有能な植民地経営者
で有能な都市計画家。台湾総督府民政長官、満鉄総裁を歴任し日本の大陸進出を支え、
鉄道院総裁として国内の鉄道の整備に貢献した。
台湾における後藤新平
明治28年(1895年)4月1日、相馬事件で辛酸を舐めたが友人の推薦で復帰。日清戦争
の帰還兵に対する検疫業務に広島・宇品港似島で臨時陸軍検疫部事務長官として従事
し、その行政手腕の巧みさからこの件の上司であった陸軍参謀の兒玉源太郎の目にと
まる。
明治31年(1898年)3月、台湾総督となった兒玉源太郎の抜擢により、台湾総督府民
政長官となる。そこで新平は、徹底した調査事業を行って現地の状況を知悉した上で
経済改革とインフラ建設を進めた。こういった手法を後藤は自ら「生物学の原則」に
則ったものであると説明している(比喩で「ヒラメの目をタイの目にすることは出来
ない」と語っている)。それは、社会の習慣や制度は生物と同様で相応の理由と必要
性から発生したものであり、無理に変更すれば当然大きな反発を招く。よって現地を
知悉し、状況に合わせた施政をおこなっていくべきであるというものであった。
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