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今からちょうど28年前、私が初めて東京に出て来た時分などは、
日本人が西洋諸外国に対する感情は、とても今日のようなものではなかった。
今はまずまず一般の人が西洋人に対して暖かい感情を持っている。
ことにドイツへ行って来た人は必ずドイツびいきであり、
フランスへ行って来た人は必ずフランス崇拝であり、
アメリカで暮して来た人はきっと親米主義であるのはおかしい位だ。
また日本にいてよく外国を見ない人たちでも、外国人を悪いとは思わない。
また怖れてもいない。
しかし私が上京した明治30年頃は、ちょっとした雑誌や新聞の文章の中にも、
「英獅露鷲虎視眈々として我が後を窺ふ」というような言葉が随分多く見受けられた。
その時分私が求めた作文の参考書の中に、外交というところを引くと一番先にその言葉が出ていた。
まず文章でも書こうという、当時ではいささか物の分った社会の水準以上に出ている人々の
考えさえもこれだったのだ。
イギリスは肉にうえたる獅子であり、ロシアは血に渇いたる鷲であったのだ。
今もよく私は覚えている。その時分、明治学院のようなミッションスクールの寄宿舎の中でさえも、
一番はやっていた歌は、イギリスのノルマントン号が熊野浦で難破して沈没したところが、
イギリス人だけボートに乗って難を避け、日本人は皆沈む船の上に置き去りにされたのに、
軟弱外交の日本政府は如何ともすることが出来なかった。
という意味の慷慨淋漓たるノルマントンの歌というものだった。
私たちはワイコフ先生やランヂス先生や、インブリー先生や、バラ先生などを、随分敬愛していた。
先生たちも生徒を子のように可愛がってくれた。
そういう深切な外国人を毎日目の前に見ながらも、外国はおそろしいという感が深かった。
今日の外国に対する我々の感情と較べると、そこに千里の距たりがある。
大正14年(1925年) 生方敏郎