09/05/01 21:09:28 pKhsny/20
「お~い、雨漏りがしているぞ」
「は~い」と勢いよく返事をし、小僧さんたちは一斉に走り出した。
間もなく真っ先に飛び込んできた小僧さんは手にザルを持って来た。
やや遅れて他の小僧さんたちは手に手に桶や手洗鉢などを抱えて走ってきた。
それを見た慧玄禅師は、一番最初にザルを持ってきた小僧さんをたいそう
誉められたという。
「お前さんは実に見事な働きをする、その調子だぞ。それに比べて
他の小僧さんたちは一体どういう了見で修行しているのか!」と。
ザルを持ってきて誉められる、一体どういう意味だろうか。
最初にザルを持ってきた小僧さんは「は~い」と返事をして無我夢中で
ザルを掴んで走ってくるまで、何にも計算しない純粋な心で動いていた
のである。慧玄禅師はザルを持ってきた行為を誉められたのではない。
ザルを持ってきた心を誉められたのである。修行というのは計算づくで
やるものではない。禅宗の根幹をなすのは、ただ一途な心である。
『一心不生萬法無咎』
「一心生ぜざれば万法咎無し」(いっしんしょうぜざればばんぽうとがなし)
という語が、四言一四六句の短い禅の詩である『信心銘』に出ている。
小利口な考えや他人を気にしながらの行動は動機が不純であるから、
相手にも自分自身にも抵抗が必ず伴う。無心で行動する者には汚れる心がない。
現代人はザルを持ってくるような小僧さんを見てすぐに笑うが、
死ぬときが来たらきっと笑われるのは我々の方である。