09/03/25 11:19:33 BW+bFZsK0
かつて考古学的には九州説有利と言われた時代があった。
しかし、時代が下がり、いろいろな場所で発掘が進んだ結果、
真っ先に九州説を捨てたのは、九州の考古学者だった。
それは、九州内で弥生後期に最も栄えていた場所が玄界灘に面した、
前原。博多周辺であることがはっきりしてきたからだ。
この両地区と九州内の他の地域との格差は歴然としていて、
九州島内に王都を求めるとしたら、
この両地区以外にはないことが分ってきたのである。
では、この両地区に邪馬台国をあてる事ができるかと言えば、
当然できない。倭人伝の地理記述が不正確なものであるとしても、
博多辺りの国を水陸それぞれ1月もかかる場所と考えるには
あまりにも無理があるからだ。
そうすると、この玄界灘に面した地区以外に
邪馬台国を求めなければならないのだが、
九州島内にはそれにふさわしい候補は存在しない。
のみならず、弥生時代末期ともなると、
前原。博多周辺をのぞく九州各地をはるかに凌駕した内容をもった
地域がいくつも出現してくる。吉備、出雲、丹後などである。
ここに、このスレの話題である巻向も含まれる。
このような現状で、邪馬台国を九州に収める必然性は、ほぼ皆無である。
現在、巻向の調査結果はこれが卑弥呼の都であると言うには
あまりに不十分である。したがって、邪馬台国が巻向であるということで
決着させるのはあまりに時期尚早である。これは確かである。
しかしもう一つ確かなことがある。
それは、邪馬台国が九州にはないということだ。