10/05/05 13:19:57.26 NOoWRShO
>>57
あるとき、邪教徒の若い男が釈尊の所にきて、
さんざん、悪口雑言ののしった。
黙ってきておられた釈尊は、彼が言い終わると静かにたずねられた。
「おまえは、祝日に、肉身や親戚の人たちを、
招待し、歓待することがあるか」
「そりゃ、あるさ」
「親族がそのとき、おまえの出した食べ物を食べなかったらどうするか」
「食わなければ、残るだけさ」
「私の前で悪口雑言ののしっても、私がそれを受けとらなければ、
その罵詈雑言は、だれのものになるのか」
「いや、いくら受けとらなくても、与えた以上は与えたのだ」
「いや、そういうのは与えたとは言えない」
「それなら、どういうのを受けとったといい、
どういうのを受けとらないというのか」
「ののしられたとき、ののしり返し、
怒りには怒りで報い、打てば打ち返す。
闘いを挑めば闘い返す。
それらは与えたものを受けとったというのだ。
しかし、その反対に、なんとも思わないのは、
与えたといっても受けとったのではないのだ」
「それじゃあなたはいくらののしられても、腹は立たないのか」
釈尊は、おごそかに、偈で答えられた。
「智恵ある者に怒りなし。
よし吹く風荒くとも、心の中に波たたず。
怒りに怒りをもって報いるは、
げにおろかもののしわざなり」
「私はばか者でありました。どうぞお許しください」
外道の若者は、落涙平伏し帰順したという。