10/03/16 21:49:50.44 jQ40H32b BE:117180252-BRZ(10000) ポイント特典
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1944年夏、天皇の命令である勅令「学徒勤労令」が出される。当時中学2年の半藤一利さん(79)らは学校でなく、軍需工場で働くことになった。
秋も終わりごろ、我ら都立七中2年生は向島区(現墨田区)の大日本兵器産業へ行くことになった。「行かないと進学試験に差し支える」なんて言われた。
機関銃の弾丸や薬莢(やっきょう)の品質検査を朝から晩まで。さすがのオヤジも「何だ工員になったのか」と少し笑っただけで、得意の皮肉は出なかった。
動員前も、軍事教練が続いた。記憶力の一番いいときに「ささげ銃(つつ)!」や「ツー・トト」のモールス信号ばかり。もっと勉強したかった。そういえば七中は英語の授業をやめなかった。敵性語だったのに、不思議だなあ。
実は、工場で仕事を教えてくれた高等女学校4年生のお姉さんと仲良くなった。ある日、工場の隅で二人で話してたら、物理学校(現東京理科大)の学生に見つかり「この非常時に!」って往復びんたをくらいましたよ。
今では彼女の名前も覚えてない。忍岡高女(現都立忍岡高校)だと思っていたら、同級生のアラカワは「第七高女(現都立小松川高校)だ」って言うんだ。もらった手紙も空襲で焼けてしまって、何も手がかりはない。
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