10/03/06 21:32:28.36 7yN451f4
>>400
おまけ。
働き者の息子は父(=神)から一度も離れたことがないために彼には父を”新しく見出す”ということが無い。
一方放蕩した息子は財産を失うことによりその拠り所である父を失う経験をする。だがそれによって彼には父を見出す可能性がある。そこには失わなければ見つけることができない父の顔がある。
そしてそのことを父が喜ぶというのはつまり神を発見すること。神の認識を新たにすること。神は自身の認識を更新されたがっている。ということではないだろうか。
なぜイエスが神の子であるのか、なぜそのイエスが神に見放されるのかという神秘もここにある。