10/01/17 16:49:15.57 TI4veMYS
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質問コーナー(1) 大阪事件とは
Q.「大阪事件」とは、どんな事件だったのですか。
A.1957年(昭和32年)4月に行われた参院大阪地方区(当時)の補欠選挙で、一部の会員から違反者が出てしまいました。
大阪府警は、この違反事件が、学会側の支援責任者であった名誉会長(当時、青年部の室長)の指示でなされた、
との事実無根の容疑をかけてきたのです。
折しも炭労事件で苦しんでいた同志を激励するために北海道・夕張にいた名誉会長は、7月3日、大阪府警に出頭するため空路、
大阪へと向かいました。途中、乗り継ぎのため羽田空港に降り立った名誉会長を、待合室で迎えたのが戸田第二代会長でした。
名誉会長は、この時の模様をこう記しています。
「戦時下の獄中闘争で、牢獄がどのような場所か、知悉されていた先生は、病弱な私の体を心配された。私の肩に伸びた先生の手に、
力がこもった。『死んではならんぞ。大作、もしも、もしも、お前が死ぬようなことになったら、私もすぐに駆けつけて、お前の上
にうつぶして一緒に死ぬからな』」
その日の午後、羽田から大阪(伊丹)空港へ。そして夕刻、出頭した名誉会長を大阪府警は逮捕したのです。奇しくも12年前、
戸田第二代会長が東京、豊多摩刑務所から出獄したのと同じ日でした。
取り調べは15日間にわたりました。その時の模様は、こう綴られています。
「私への取り調べは、過酷を極めた。夕食も抜きで、深夜まで責め立てられたこともあった。手錠をかけられたまま、
屋外に連れ出され、さらしもののようにされたこともあった」
しかも、取り調べの検事は、罪を認めなければ、戸田会長を逮捕するぞ、との陰険な脅迫まがいの言辞まで吐いたのです。
名誉会長は、体の衰弱した第二代会長を守るために、ひとたびは罪を認め、法廷闘争で身の潔白を証明することを決意したのです。
7月17日に釈放。裁判は、その年の10月18日に初公判が開かれ、逮捕から4年6ヶ月後の62年(昭和37年)1月25日、第84回
公判となる判決公判において、大阪地裁は名誉会長の無罪を宣告。完全に正義が証明されたのです。