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>>469
大日本帝国統治下の朝鮮の農業
1907年、統監府勧業模範場の開場式において、統監・伊藤博文は訓辞を述べ、明治維新以来の日本の
農学によって韓国の農業を適切に指導したならば、「能く韓国と国民の生活を改善し衣食を充実するの功
績を挙げ」ることができるだろう、といっている。農業はそれぞれの土地の在来技術に基づいて発展して
いくものであるが、このとき、伊藤の脳中には朝鮮の在来技術を尊重しようとする意識はまったくなかった。
また同日、場長の本田幸介の 「(韓国の)農産物の種類善良ならざるが故に、産額従て多からざるのみな
らず、品質もまた劣れり、これが改良を図らざるべからず」 という式辞も、朝鮮の農業を蔑視する先入観
に満ちている。もともと国立大学出身の日本人農学者たちは、日本の農民を蔑視する傾向が強かったが、
それが日本人一般の朝鮮人蔑視によって一層強化されて、朝鮮の在来技術を尊重しようとする意識がまっ
たく欠如していた。
勧業模範場という名前そのものが、日本の農業技術を韓国農業の 「模範」 にしようとする意識を端的にあ
らわしている。やがて、それは、日韓併合とともに朝鮮総督府勧業模範場、さらに1929年、朝鮮総督
府農事試験場と改称され、1944年、道農試をふくめて総督府農業試験場に改組されたが、翌年、日本
の終戦によって終止符を打った。(つづく)